年末年始の過ごし方は、その家族の輪郭を映し出す。スキー場で迎える新年、放任でありながら厳格な父のふるまい。石原良純は、正月と大晦日の石原家の記憶をたどりながら、父・石原慎太郎という存在を振り返る。そこにあったのは、華麗なる一族の緊張感と、最期まで決して衰えなかった父・慎太郎の気迫だった。※本稿は、政治ジャーナリストの石原伸晃、タレントで気象予報士の石原良純、政治家の石原宏高、美術家の石原延啓による著書『石原家の兄弟』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
初めてスキーを履く子供に
滑りを教えるのは父の務め
「正月はどちらへ」と聞かれ、「志賀高原でスキー」と答えると大方の人に驚かれる。昭和の子供の僕にしてみれば、スキー場で迎える新年は憧れの正月風景だ。いつから、スキーも志賀高原も人に忘れられた存在になってしまったのだろう。
石原慎太郎 Photo:SANKEI
確かに、昔の志賀高原は遠かった。上野駅から特急“あさま”に乗って長野まで4時間弱。長野駅に着いたら皆、リュックとスキーを担いで長野電鉄のホームをめがけて走る。そこから満員電車で湯田中までが1時間。さらに雪道をバスに揺られて、志賀高原まで1時間以上かかった。
車でスキーに出かけるようになっても、高速道路は高崎まで。あとは、国道18号をひた走る。夜遅くに都心を出て夜明け前に志賀高原の登り口に到着する。志賀草津有料道路の料金所前で時間を潰して、日の出と共に凍った山道を登ったものだ。
ところが、1998年の長野オリンピックの前後に志賀高原へのアクセスは激変した。長野新幹線が走り、上信越自動車道が開通し、志賀高原の山道は立派な道路に改修された。志賀高原は最早、東京から遠い遠いスキー場ではない。子供が幼稚園に入ったのを機にスキーを教えようと思った時、僕は迷いなく志賀高原へ回帰することにした。







