「お金とは何か」を考える上で「お金の歴史」を学ぶことは大切です。しかし日本人の多くは、お金の歴史を学んでいません。日本史の授業でも金融の歴史は学んでいない人がほとんどではないでしょうか? 3時間目の今回は、『金融の世界史』の著者である板谷先生とともに、お金の謎を解くための「歴史の旅」に出かけます。人気投資マンガ「インベスターZ」とのコラボ企画。最高の講師陣をお迎えして、お金の授業がいま始まります!!
取材・構成:岡本俊浩/写真:加瀬健太郎/協力:柿内芳文(コルク)
硬貨の誕生 5円玉に穴が空いている理由
いきなりですが、財布の小銭入れを広げてみてください。5円玉があります。50円玉もあるでしょう。硬貨の真ん中に「穴」が開いていますよね。
1955年生まれ。関西学院大学経済学部卒。石川県播磨重工業を経て、日興証券に入社。アメリカ・NYで6年間駐在員を経験する。その後、ドレズナー・クラインオート・ワッサースタイン証券でマネージングディレクター、みずほ証券では株式本部営業統括を務める。06年に投資顧問会社の「ルート・アセット・マネジメント」を設立。代表取締役に就任。現在は、作家としても活躍。著書に『日露戦争、資金調達の戦い 高橋是清と欧米バンカーたち』『金融の世界史 バブルと戦争と株式市場』(ともに新潮選書)。現在、「週刊エコノミスト」で「日本人のための第一次世界大戦史」を連載している。
実はこれ、もともとは古代中国で生まれたデザインで、東洋のコインの特徴なんです。穴はコインを何枚も通してまとめて成形したり、紐を通すために開けられたもの。大量のコインに紐を通し、持ち運ぶのにも使われました。
当初、日本は中国から伝わってきたコインを使っていたため、その名残りが現在の5円玉、50円玉にある、というわけなんです。西洋では、近代に入って例外はありますが、あまり見かけません。
古代中国で硬貨が生まれたのは、紀元前8世紀頃と言われています。
それまでは「子安貝」という貝殻が通貨として使われたりしていましたが、本格的なものではありませんでした。そこに登場したのが青銅製のコインだったというわけです。製法は、粘土でできた型に熱した青銅を流しこんで冷ます。つまり「鋳物」です。型にはめてつくるから、穴も初めから開けることが簡単にできたんです。
ただし、この型はハンドメイドですから、手がける職人によって大きさにバラつきが生じたんです。そのため、重さもバラバラでした。重さがまちまち。これは貴金属を材料とする西洋では絶対に受けいれられない価値観でした。
西洋のコインは、紀元前7世紀のリディア王国(現在のトルコ)がはじまりの場所だと言われています。ここで金と銀が混じった天然の合金が見つかって、それを素材にコイン製造が始まったんです。
金属を溶かすところまでは中国と一緒ですが、その後が違う。溶かした合金を粒にし、ハンマーでバンとたたき、王様の刻印を入れる。打刻です。こういう製造方法ですから、中国のように穴は開けられません。その代わり粒の重さは厳しく計られています。
なぜ中国では重さがばらばらで大丈夫だったのに、リディアでは厳しいのか。実は、これ、お金に対する東洋と西洋の違いを表わしているんですね。
古代中国のコインが、重さがばらばらでも流通できたのは、それだけ支配者の権力が強かったということ。つまり、
「王様がいいって言っているから、少々重さが違っても大丈夫だろ」という理屈です。
しかし、これは西洋では通じませんでした。地中海世界では、広い範囲を治める権力がなくて、異なる民族や勢力で次々と権力が変わるので、
「最後に信用できるのは金銀だけ。ころころ変わる王様なんか信用できるか!」
というわけで、金銀など貴金属の重さが絶対視されたんです。
紙のお金はどうやって生まれたか
世界で初めての紙幣が生まれたのは、10世紀の北宋。いまお話した歴史の流れを知っていると、中国で紙のお金が生まれるのもわかりますよね。重さが違っても、
「王が価値を保障してくれるんなら、別に紙だっていいでしょう」
となるわけですから。
ちなみに、こんな逸話があります。『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロが中国を訪れたとき、対価を支払おうと、実物の金を差し出したら、
「それじゃ受けとれない。紙幣と換えてから来てくれないか」
と返されて、びっくりしたらしいんですよ。いかに中国の文明が進んでいたかが、わかります。
小さなコインを例にとるだけでも、お金をめぐる環境の違いが見えてきませんか? 実は金融の世界では「歴史」をとりわけ重要視します。日本だけを見ていると、そう感じられないかもしれないけど、欧米では当たり前のこと。このことに気づいたのは、私がアメリカで証券マンをやっていたときのことでした。
1980年、私は大学を卒業し、「石川島播磨(重工業)」に就職しました。船が好きだったから、船舶製造の部署に回してもらいました。会社は原子力プラントもつくっていて、当時の花形はそっちでしたね。みーんなそっちに行くもんだから、わたしの希望はすんなり通っちゃって、7年ぶりの大卒文系社員として船舶部門に配属されました。
「どうせなら、現場も知っておけ」ということで、入社後一年間は横浜の造船所の現場で溶接したりガス溶断、機械工の見習いとして働きました。
ところが、そのうち造船不況が再燃。減産に次ぐ減産で、船を愛する造船所の作業員の年輩の方がリストラで涙を流して陸の仕事に出向していくのを見ているのが辛くなり、心機一転、日興証券に転職をしました。84年のことでした。
学生のころ、スタンフォード大学のサマースクールに行ったのと、造船所では外国船を担当していたので英語は少々話せたので、「国際要員」として採用されました。すると1年経って「ニューヨークに新しい株式の部署をつくるから、お前行け」という話になって、6年間のアメリカ勤務が始まります。
そこでマンハッタンの建築物を見て、「おや?」と感じるわけですよ。日本と違って、アメリカは空襲に遭っていないので、歴史的な古い建物がいっぱい残っている。職場環境が産業や金融の歴史と地続きだった。
仕事の会合でも歴史の教養がごく普通に出てくるわけです。金融工学やファイナンス(金融)の授業を勉強してきた人間が、金融史も勉強しているので「ギリシャ時代では〜」「ローマ時代には〜」という引用をもってくる。1929年の大恐慌の話など、持ち出すのも大好きです。
つまり、歴史の教養がファイナンスのなかに組み込まれている。知ってて、当然なわけです。
ほとんどの日本人は近現代の金融事情を知らない
日本の場合、太平洋戦争の被害や戦況は教わるけれど、たとえばあの頃、日本の金融がどうなっていたかを知る人はあまりいませんよね。株価は? 国債は?
なんとなく「大変だったんだろうなぁ」ぐらいにしか、思ってないんじゃないでしょうか。
日本では、近現代史を経済の観点から理解しようとする試みはあまり行われていない。今でも実社会では、たとえばウクライナで何かあれば為替や株価がまず第一に気になるはずなのに、歴史では為替や株価など全然顧みない。
日露戦争は軍資金の獲得がものすごく重要な要素で、日本はロンドンで国債を発行して欧米の投資家に販売しました。けれど、そういうことは日本の歴史には出てきません。まるでユダヤ人のお金持ちがお金を貸してくれたみたいに勘違いしている記述が多いのですが、そうではありません。
日本を資金面で強力に支援したと言われるユダヤ系アメリカ人のジェイコブ・ヘンリー・シフは、投資銀行の社長で日本国債のアメリカでの販売を引き受けただけ。この「引き受け」という金融用語をあたかもユダヤ人がお金を貸したみたいに歴史家が勘違いしてしまったんです。高額な引受手数料を獲得したけれど、国債の利息を受け取ったのは米英の投資家であって、ユダヤ人銀行家というわけではありませんでした。
そういうことがあったので、私は『日露戦争、資金調達の戦い 高橋是清と欧米バンカーたち』を書いたんですが、なんだか日本社会では「歴史×お金」という観点が、抜け落ちちゃっている感は否めません。そこで2冊目の『金融の世界史』も書いたというわけです。
では、なぜこうなっちゃったんでしょうか。
※続きは 『インベスターZ公式副読本 16歳のお金の教科書』(ダイヤモンド社)をごらんください。