森は高ぶる感情を必死に抑え、質問をした。

「『あいつ』と言いますと、どなたのことでしょうか?」

 社長は、「お前に、この前言っただろう?」と怒る。森は身に覚えがない。この数週間、社長と話す機会などなかったのだから。70代半ばになり、高齢化した社長は、最近社員とのやりとりが不自然になっている。だが、誰もそのことを指摘しない。

 専務の白石が割って入る。

「後で、俺と話し合おう……」

 会議が終わると、社長や常務がその場を退席する。いつの間にか、白石がすぐ横にいた。

「『あいつ』とは山瀬のことだよ。社長は十数年前、奥さんを亡くしてから、山瀬とは男と女の関係なんだ。今回の人事異動で、山瀬を部長にしたいんだろう……。いいじゃないか?君は、山瀬を異動リストに入れるだけなんだから」

 山瀬は経理の課長。40代後半で独身。知的な雰囲気で、適度な色気も感じさせる女性だが、結婚はしていない。かねがね、社長との関係はごく少数の社員の間で囁かれていた。

社長の腰巾着ぶりを発揮し
悪乗り人事を強要する肉食専務

 誰もいなくなった会議室で、森は放心状態になった。4年前、人事総務部長になったとき、念願を叶えたいと思った。

 情報通信業界では有力であるはずのこの会社は、歴代社長が人事権の隅々までを掌握してきた。社員の採用、配転、評価、異動、昇格などへの口出しは、あらゆるところに及ぶ。人事総務部は、社長の言うなりの人事を発令するばかりで、実は機能していない。特に今の社長は「長期政権」となり、それが行き過ぎている。

 人事総務部は社長に泣かされ続けた。いったん社員の配転が決まった直後に、社長の一存で覆されることが頻繁に起きている。しかも、社長の鶴の一声で、何の経験もない人をその部署の管理職に据えることもしばしばあった。その都度、人事部員は関係部署の管理職などにお詫びをしていた。