稲盛和夫が語った起業の「原点」とは――。京セラとKDDIという2つの世界的大企業を創業し、JAL再建の陣頭指揮を執った「経営の父」稲盛和夫氏。その経営哲学やマネジメント手法は世界中に信奉者を持つ。
今回、『稲盛和夫経営講演選集』(第1~3巻)発刊を記念し、1976年に起業時の経験を語った貴重な講演録を、全5回に分けて掲載する。第2回は、京セラ米国発展のエピソード。苦難の末に受注した最初の案件とは?

毎晩泣きながらアメリカ中を回って
1つも売れなかった

 会社をつくって4年目のことをお話ししたいと思います。私どもは、電子工業の最先端を行く製品をつくっていました。しかし、京セラという、資本系列もなければ名前も知られていない会社がつくったものは、大手の電子工業メーカーに採用してはもらえませんでした。

1959年、会社正門に立つ創業時の稲盛和夫氏。

 どこの会社がつくっても変わらないような部品ならば別ですが、うちがつくっていたのはブラウン管テレビの電子銃やコンピュータの心臓部に使う重要な部品ですから、「名もない会社がつくったものでは信用が置けない」と言われて、なかなか使ってもらえませんでした。注文をとりに何回も足を運びましたが、門前払いを食らいました。

 私は「このままではいけない」と強く思い、アメリカに製品を売りに行くことにしました。日本の電子工業界は、戦後アメリカから電子工業の技術を導入して発展してきました。

 そうであれば、直接アメリカへ行って、アメリカの電子工業界で一番進んだメーカーに自分たちの製品を使ってもらえば、一も二もなく日本の大手の電子工業メーカーも使ってくれるだろうと考えたのです。実際に、風呂敷包みに製品を入れて、アメリカへ売り込みにいきました。

しかし、日本人にすら相手にされない人間がアメリカへ行ったところで、当然ながら誰も相手にしてくれません。最初に行ったときには、言葉も満足に話せないのにアメリカ中を必死で回り、毎晩涙を流しながら、悔しい思いをしたことを覚えています。

 当時のお金で100万円ほどをなんとか工面したのですが、来る日も来る日も製品は1つも売れませんでした。生活習慣の違いなどいろいろな苦労があり、「このまま手ぶらで帰ったのでは従業員に申し訳ない」とがんばりましたが、やはり売れませんでした。