長い引用になったが、私がそれに値すると思って引いたのではない。吉永の人間判別法のシャープさとディープさに舌を巻いたから紹介したのである。

「切る時も誉める時も激しい」佐高の本の中で、これは「少しばかり趣を異にした作品」だとして、吉永はこう続ける。

「血刀を握りしめ仁王立ちして権力に異議を唱える時の攻撃性は影をひそめ、自らの琴線に共鳴してくる男たちのうたに、じっと耳を傾けているかのような穏やかな風情がある。

 ここに登場する男たちは、みんなしたたかに強く、潔く、成功もし、有形無形のものを世の中に残している。しかし、それと同じくらいに、弱さを持ち、板挟みに悩み、失敗も重ね、失ったものの痛みを抱えている。ひとひねりも、ふたひねりも屈折している」

 吉永の語った「屏風の思想」というのも忘れられない。屏風は真っすぐにしたら立たない。曲がってようやく立つ。これもまた1つの立ち方だと思うと彼女は言ったのである。

 漫画家の石坂啓、人材育成コンサルタントの辛淑玉、そして市民派政治家の辻元清美と会食をすることになって、吉永に同席を頼んだ。男1人では、とても若手猛女に太刀打ちできないと思ったからである。

 正解だった。ほぼ初対面だった3人から、直きに彼女は“姐さん”と一目置かれていた。ちなみに彼女の歌う「緋牡丹お竜」は絶品である。

 私は決して吉永の過褒が当てはまる男ではないが、どうしても彼女の書いた解説の結びを引きたい。

「私は、佐高さんの痛みの限界が心配になる。安全圏に身を置いて吠えているのではなく、敵陣深く入り込んで切りまくっているのである。当然ながら自らも切られる。佐高さんは、切られれば人一倍痛みを感じる人である。けっして切られる痛みを感じないまま、人を切りまくっているわけではないのである。切られた相手はひとつの傷に耐えればいいが、切りまくる佐高さんは満身創痍である。友人のひとりとして、それは辛い眺めなのだが、手加減をしたらとはさらに言えない」

 そして、「自らの闘いを闘ってほしい。やはり、私もそう願うしかないのだろう」と、この檄文は結ばれている。