液晶の「オールジャパン」構想は
実現しても失敗するだけ

 では、シャープはどうすればよいのか。これまでの経緯を整理すれば、答えは自ずと見えてくる。

 シャープは我が世の春を謳歌していた07年5月に、堺工場の建設に踏み切った。巨大な液晶パネル工場を動かすために、この時点でシャープはオールジャパン陣営の形成に動いていた。パイオニア、東芝、ソニーあたりがパネルのOEM供給を受ける案に同意したが、オールジャパン(松下電器は含まれなかった)でも国際競争には勝てず、09年10月に始動した堺工場がフル操業する日は来なかった。堺工場は太陽電池、亀山工場は中小型液晶に活路を見出そうとしたが、そのプランBも不発に終わっている。

 社運を賭し、死力を尽くして、シャープは奇しくも一つの時代が終わったことを証明した。産業革新機構に、シャープを超えてできることなど、何一つとして残されていない。ここで日の丸連合を再結成するなど、シャープの健闘を無為にするようなものである。その点は、ここに特筆しておきたい。

 シャープは、韓国・台湾勢も赤字転落するなかで、最初にギブアップした。技術蓄積を誇る一方で、財務基盤が一番弱かったからである。同じ問題が産業革新機構にも襲いかかることは、目に見えている。

2012年春に敗戦は明確に
銀行に翻弄され続けたシャープ

 シャープの黄金時代を演出したのが町田勝彦氏であることは疑う余地がない。彼は12年春に敗戦を自覚すると、シャープを鴻海に託すことにした。液晶部門をジャパンディスプレイに合流させる道もあったが、「親方日の丸」の下だとシャープは腐ると見切って、却下したのである。

 ところが、町田勝彦会長と片山幹雄社長が引責辞任し、あとを継いだ奥田隆司社長が翻意する。奥田氏は鴻海を遠ざけ始め、邦銀に接近した。銀行の支援条件を満たすべく、社員数を3000人以上も減らし、平均年収を80万円も削ったが、止血に失敗し、皮肉なことに自ら呼び込んだ銀行に1年で引導を渡されてしまう。そしてシャープの漂流が始まった。

 奥田氏のあとに高橋興三社長が登板しても、もう路線を変える余地はない。シャープが銀行に翻弄される様は周知のとおりである。

 すでに12年春の時点で、シャープは敗戦処理を必要とした。それなのに自主再建路線を選んだ奥田氏の錯誤は、このうえなく高くついたと言わざるをえない。