破竹の勢いで天下統一目前まで駆け上がった織田信長。信長の戦い方には、これまでの戦い方を変えるいくつかのイノベーションがあった。その一つが根拠地を定期的に変えたこと。新興勢力だった信長が、大包囲網を潜り抜けて天下人となるための戦略とは何だったのか?今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。

【法則7】組織の飛躍は計画的な変化から生まれる

なぜ織田信長は、何度も根拠地の城を移動させたのか?
尾張の地で若くして台頭した織田信長は、足利義昭の依頼をチャンスとみて京都に上洛。中央権力とつながり天下を狙った。京都では新興勢力だった信長は大名の反発を受け、3次もの大包囲網が敷かれる――。絶体絶命の危機に、信長はどう戦ったのか?

信長を悩ます三度の大包囲網

 源頼朝の鎌倉幕府は、義父の北条時政が権力を狙い、3代目の源実朝以後は北条氏が実権を掌握。1274年、1281年の元寇は北条時宗がトップとして対処。1333年、後醍醐天皇と足利尊氏、新田義貞らにより攻められ鎌倉幕府は滅亡します。

 1338年に足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府が始まりますが、13代目の足利義輝の時代に将軍は有力者の傀儡となっており、義輝は暗殺され、弟の義昭は流浪。義昭は各地の有力武将に手紙で自らを将軍として上洛(京都入り)してほしいと依頼します。

 この依頼を活用して義昭と上洛したのが戦国の風雲児、織田信長です。尾張(愛知県)に生まれた信長は、1551年に父が死去し、18歳で家督を相続。世間では「大うつけ」と評判で、これで織田家も終わりと思う家臣が多いなか、同年の赤塚の戦い、萱津の戦いなどで見事な采配指揮を見せ、その後尾張の統一を進めます。

 1560年には桶狭間の戦いで、強大な勢力を誇った今川義元に勝利。そのとき、信長は27歳。2年後には三河の徳川家康と同盟を結び、現在の岐阜県、三重県にまで勢力を拡大。1568年に足利義昭と京都入りし、義昭は15代の室町幕府将軍となります。

 新興勢力として将軍を囲い込んだ信長は、京都で周辺勢力と激しく衝突していきます。

(1)第1次包囲網(1570年)越前の朝倉氏、大坂の本願寺、四国・紀伊半島勢力
(2)第2次包囲網(1571~73年)武田信玄、朝倉、浅井、三好、足利義昭など
(3)第3次包囲網(1576~83年)武田氏、毛利、上杉謙信、本願寺、紀伊半島勢力


 信長は室町将軍(義昭)の権威を使って大名たちに京都に来るように命じ、それを拒否した朝倉などを討伐。しかし大坂の本願寺の反抗などで苦戦を強いられます。第2次、第3次では武田信玄、上杉謙信など東国のいくさ上手が京都を目指すも、両者は病死。第3次包囲網では毛利、武田、上杉などを信長軍が押し返すも、1582年に本能寺で明智光秀の謀反により信長が自害して、第3次包囲網は消滅します。

弟が討死した第1次、武田信玄が京都を目指した第2次包囲網

 信長は三度の包囲網の打破に生涯を賭けましたが、順調には勝ち進めませんでした。弟の信治が琵琶湖近くの戦闘で戦死、伊勢の一向一揆の攻撃で別の弟、信興も戦死。第2次包囲網では、過去安定した関係だった武田信玄が、突如裏切り京都を目指し、三方が原で徳川家康を破ります(直後に信玄は病死)。極めて苦しい戦いを続けた信長は、いくつかの対抗策を編み出していきます。

(1)自身の根拠地を那古野城→清洲城→小牧山上→岐阜城→安土城と変える
(2)同時並行で集中戦闘できる「方面軍」を組織して各地の戦闘を担当させる
(3)進撃速度の速さ、撤退の速さ(岐阜城から京都まで一日で一騎駆けなど)
(4)兵農分離を目指し戦闘集団をつくり、根拠地移動で家臣の土着性を失わせる

 当時の武将は、不変の根拠地を持っており、戦闘が終わると必ずその地に戻りました。そのため京都から遠い武田氏、上杉氏などは勢力があっても上洛が難しかったのです。信長は領地拡大に合わせて根拠地を西に移動させ続けて、家臣団も城下町に住んだので、自身の根拠地がそのまま西へ移動するような形となりました。

「方面軍」は、北陸・関東・大坂・畿北・四国・中国・東海道などに分かれ、中国方面は羽柴秀吉が、東海道は同盟していた徳川家康が担当していました。これはビジネスで多角化を成功させる事業部制に大変よく似ています。当時はいくさのない時期、武士も農業に関わりましたが、信長は直臣の兵農分離を進め、根拠地を移動させたことで家臣団は領地にこだわらず戦闘に集中できました。