それまでデメリットだったものがメリットに切り替わる。そんな逆転の発想は、多くのヒット商品の誕生秘話でも耳にすることが多い。三国志の軍師・諸葛孔明は弱小軍団に勝利を呼び込むために、どのように考えたのだろうか?今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。

【法則4】弱みは見方を変えれば一瞬で強みへと変わる

諸葛孔明は劉備を皇帝にするために何をしたのか?
後漢の滅亡で再び混乱の時代を迎え、中国大陸は新しい英雄たちを待望する。新たな武将たちが現れては消える中、魏の曹操、呉の孫権が大勢力となる。鳴かず飛ばずの劉備玄徳を、天才軍師と名高い諸葛孔明は、どのような秘策で皇帝にしたのか?

400年間におよぶ漢帝国の治世から群雄割拠へ

 始皇帝崩御で、わずか15年で消滅した統一国家の秦。乱世をまとめ上げた劉邦は、秦を打倒し漢帝国の創始者となりますが、秦の過酷な法治・中央集権の反動から、中央集権と地方権力が併存する、中間的な支配で体制維持に成功します。

 途中、王莽という王族の一人が政権を簒奪することがありましたが、その後は劉氏が再び天下を収め(後漢)、紀元220年まで約400年間の長期帝国となりました。

 後漢は北方・西方の異民族との戦争で疲弊し、中央政権が宦官による腐敗と悪政を重ねたことで、184年には民衆の全国的な反乱が起こります。中央政権が、軍閥・地方勢力を反乱の鎮圧に利用したことから、軍事勢力を持つ軍団の権力が拡大。群雄割拠の状態を招いてしまいます。

 その中で勢力を拡大したのが魏の曹操です。その他、三国志で有名なのは、劉備と孫権の二人です。劉備は関羽・張飛などと反乱鎮圧で戦い、次第に傭兵的な軍団として拡大するも拠点を持てず流浪、孫権は大陸の南方である呉で世襲的に権力の座につきました。曹操は、名門出身の袁紹と「官渡との戦い」(200年)で激突、自軍の数倍の袁紹軍に勝ち、北方と中央の支配者となります。

 208年に曹操は南方進出を開始しますが、その年の冬に「赤壁の戦い」で呉の周瑜の策に敗れ、魏呉蜀の三国鼎立の状態が生まれます。劉備は三顧の礼で迎えた軍師、諸葛孔明の策で呉と結び、赤壁で曹操を破ります。

流浪の軍団トップだった劉備が孔明から授けられた戦略

 三国志は『正史』と呼ばれる歴史書と、歴史小説の『演義』が有名です。正史は蜀の遺臣であり、蜀滅亡後は魏の後継国家である西晋に仕えた陳寿が書き上げました。ここでは陳寿の正史(『正史 三国志〈5〉蜀書』)を参照しています。

 曹操が袁紹を破って以降、劉備は現在の河南省である荊州に逃れており、そこで諸葛孔明と出会います。孔明は流浪を続けてきた劉備に「天下三分の計」を授けます。

■諸葛孔明の天下三分の計
・曹操は百万の軍勢を擁し、正面から対等に戦える相手ではない
・孫権は三代を経た江南の支配者で、味方として滅ぼしてはいけない相手
・荊州と益州は支配者が脆弱で、占領すれば劉備の地盤にできる

 孔明の結論は手薄な荊州と益州を領有し、孫権と結びまず曹操を倒す。曹操を倒したのちは、二強時代を経て孫権を打倒すれば劉備が天下を統一できるというものでした。

 この計略の驚くべきところは、逃げ続けてきた弱小軍団に過ぎない劉備の一味が、天下統一を成し遂げる可能性が説かれていることです。事実、赤壁の戦いで勝利したのち、劉備は荊州を領有して勢力を拡大、張飛・趙雲などの武力で益州も手に入れます。

 魏の樊城を攻めた関羽を、孫権が裏切って破らなかったら、魏は首都に危機を感じて遷都したと言われており、天下三分の計は実現性が高い計画だったことがわかります。