弱者だった源氏が平家打倒を目指して段階的に勢力を拡大する様子は、シェア争奪の定番法則、ランチェスター戦略とも重なるところが多い。ライバルに負けずに最後にナンバーワンを奪い取る、戦いの黄金則とは?今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。
【法則6】ナンバーワンになるには、まず弱者を攻撃する
朝廷に近づいた平家は、平清盛を筆頭に都で華々しい地位を得るが、やがて来襲した源氏の軍勢に太刀打ちできず、総崩れとなる。そして、ついに壇ノ浦で平家は滅亡することに――。「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた平家は、なぜ源氏に負けたのか?
1100年代に、日本を二分した平家と源氏の戦い
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」(河合敦『平清盛と平家四代』より)
多くの日本人が知る、平家物語の冒頭の一節です。世間で勢いがあり盛んな者も、必ず衰える無常のことわりを伝えています。現代から900年前、わが世の春を謳歌していた平家一族は、一度は都から追いやった源氏に敗れて滅亡します。
平清盛の父、忠盛は白河上皇に近づき武士としてはじめての殿上人となった人物です。殿上人とは、天皇の日常生活の場「清涼殿」に上がることを許された者を指します。もともと平家と源氏は敵対していたわけではなく、白河上皇が院政を敷いたときに、自らの権力の土台として武士を利用したことから因縁が始まります。頼朝の曽祖父である義親は、白河上皇の命令を受けた正盛(清盛の祖父)に討たれているからです。1156年の保元の乱でも、配下の平家と源氏は激しく衝突することになります。
平清盛を頂点に、朝廷で栄華を極めた平家
3年後の平治の乱で、源義朝と藤原信頼は二条天皇を幽閉して院政を敷くクーデターを起こしますが、天皇は脱出して清盛のいる六波羅に辿り着きます。朝敵となった義朝と信頼は討たれ、父と従軍したわずか13歳の頼朝も平家に捕らわれ死罪となるところ、幼少であったことで伊豆へ流刑となりました。
伊豆で頼朝は20年近くの歳月を過ごしますが、地方豪族の北条時政の娘(政子)と恋におち、やがて夫婦となることで、北条氏の後ろ盾を得て台頭します。1180年に、平家の栄華の陰で不遇だった以仁王が、平家討伐の指令を全国の源氏に伝えました。同年に頼朝、木曽義仲が挙兵。1181年には、平家の繁栄を支えた清盛が病死します。
しかし、京に入った義仲が暴政をふるったため、頼朝は弟である源義経に義仲を討たせます。義経は一ノ谷の戦いで敵陣の背後の谷から攻める「鵯越」を成功させて平家は海に逃れ、香川県の屋島、下関の壇ノ浦の戦いでも義経は連勝して平家を滅亡させます。義経は奇襲の達人であり、屋島の戦いでも暴風雨を衝いて上陸し、各所に火を放って大軍だと思わせた上で、敵陣の後ろから突入して平家を大混乱に陥れました。
頼朝の運命を分けた二つの選択肢
頼朝の挙兵は、実は敗北から始まります。伊豆で平家配下の山木兼隆を奇襲して殺しますが、事件を知った平家は関東の武士3000人を集めて頼朝を包囲。300人の頼朝側は、あっという間に敗北、頼朝と敗残兵は房総半島まで逃れます。
房総半島には、味方だった三浦一族の縁者があり、関東平野には亡父の義朝とつながる源氏ゆかりの者も多く、千葉、次は関東平野へと段階的に支配力を拡大。先の敗戦から1ヵ月ほどで、関東の豪族を束ねて数万の兵力となり、鎌倉入りを果たします。
のちに、富士川の戦い(1180年)で平維盛を破った頼朝側は、二択を迫られます。
・敗走する平家の軍を追撃して京都に向かうか
・関東に再び戻り、帰順していない勢力を討伐するか
頼朝は京都に進まず地固めをします。佐竹氏など、頼朝に帰順せず未だ平家の影響下にあった関東の豪族を滅ぼして、地域の絶対的地位を確立します。頼朝は、小さくとも自らが一番となれるエリアに向かい、段階的に勢力範囲を拡大していったのです。
一方の京都では、貴族の公家や朝廷(天皇・上皇)、僧兵を持つ寺院勢力など、さまざまな勢力が拮抗する中で、平家は権力の均衡を維持できない状態になっていました。1180年には6月に福原遷都が失敗。年末に興福寺の反乱を鎮圧した平重衡が火を放って東大寺などを焼き払い、清盛が注意深く友好関係を築いてきた寺院勢力を激怒させ、支配力を低下させます。
翌年には清盛が病死(享年64歳)。優れた判断力で平家を繁栄させた清盛の死後、残された平家一族は権力維持の方法がわかりませんでした。清盛が死去した1181年は飢饉でしたが、頼朝は後白河法皇と比叡山に密書を送り、比叡山には関東からの年貢(食糧)を約束し、後白河法皇には源氏は謀反の心はなく、法皇のため平家を排除し、再び朝廷の傘下に入りたいのだと伝えます。
頼朝は巧みに、京都の三勢力が一致団結して源氏に当たることを防いだのです。老獪な後白河法皇は、のちに平家なきあと源氏の二人(頼朝と義経)を争わせ、自らの権勢維持を狙いますが、頼朝は毅然として義経を討伐して分裂の隙を与えませんでした。