ビジネスでも、必ずしも強いリーダー、強い組織が勝利を手にするわけではない。秦末期に現れた項羽と劉邦という対照的なリーダーもまた、その後の命運を分けたのは「戦いの強さ」ではなかったことを歴史が証明している。先の見えない時代にこそ知っておきたい、今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。

【法則3】「弱さ」を認めることが逆に大きな武器となる

鬼神の強さを誇る項羽ではなく、なぜ弱者の劉邦が天下を獲れたのか?
カリスマ始皇帝の死後、宦官の謀略で暗愚な人物が後継者となって混乱した秦は、各地で農民反乱が発生。混乱の中で現れた項羽と劉邦の二人の英雄は、秦を滅ぼしたのち、新たな中華帝国の覇権を賭けて激突する。弱者だった劉邦がなぜ、勇猛な項羽を倒せたのか?

最初の統一王朝が崩壊した理由

 紀元前210年、六国を滅ぼした始皇帝も四九歳で死去します。丞相の李斯は、宦官の趙高という人物にそそのかされて、始皇帝の遺書を偽造。長男で本来後継者だった優秀な扶蘇を殺害し、暗愚だった胡亥(末子)を次の皇帝に指名します。やがて趙高は二世皇帝を操る影の実力者となり、優れた政治家だった李斯は趙高の陰謀によって処刑されます。これにより、秦帝国の崩壊は加速していきました。

 厳格な法で管理されていた秦では、あまりの重税で農民反乱が各地で頻発。滅ぼされた旧六国の遺臣たちも各地で反乱軍を組織しますが、その中で二人の英雄が台頭します。

 一人は項羽、楚の将軍の家柄で戦争にめっぽう強い将でした。もう一人は劉邦、彼は地方の小役人をしたこともある人物ですが、農村で侠客のような前半生を送っていました。 項羽と劉邦は秦を打倒する戦争で、次第にライバルとして戦果を争うようになります。紀元前206年、項羽軍が秦の都だった咸陽に火をつけ廃墟とし、中国最初の統一王朝は、わずか15年で滅亡します。

弱くても勝てる! 項羽と劉邦の戦いの違い

 項羽と劉邦の戦闘の経過と結果を振り返るとき、多くの人は驚きを感じるでしょう。なぜなら、戦闘では圧倒的に項羽が強く、劉邦は名門でもなく武勇に抜きん出た人物でもなかったからです。彼はむしろ、自らの弱さを大きな武器としました。

・知恵のある部下の助言や提案に素直に従った
・秦への進軍では、強敵をひたすら避けて蛇行しながら進軍した
・褒美や名声は、活躍をした部下に気前よく分け与えた
・限界まで戦わず、必要があれば何度でも逃げた

 項羽軍には、范増という老軍師がいました。しかし項羽は自軍が優勢のとき、劉邦を殺すべしという范増の助言を無視し、千載一遇の機会にライバルを逃します。秦の都を攻略する競争では、項羽が秦を目指して直進し、すべての敵を倒して進軍したのに対し、劉邦は手ごわい敵をすべて迂回、なんと劉邦のほうが先に咸陽に到着しています。

 劉邦は軍師の張良の助言を素直に実行し、韓信や彭越などの戦争に勝つ武将に褒賞を与えて取り立て、時間と共に項羽を圧倒します。

 項羽は名軍師の范増がいるあいだは劉邦に勝ち続けましたが、敵の離間策で范増を手離し、自分ですべてを取り仕切ることで自滅していき、紀元前202年の「垓下の戦い」で殲滅されて自刃します。