ハーバード・ビジネス・スクールが正規の授業の一環として日本の東北を訪れる超人気授業「ジャパンIXP」がどのような経緯で始まったのか、また実際に学生たちや東北の受入先がどのような学びや気づきを得てきたのかレポートしていく本連載。本論に入るウォーミングアップとして、この第2回と次の第3回では、そもそもハーバード・ビジネス・スクールとはどのような学校なのか、そして、ジャパンIXPを含む「フィールド・スタディ」の授業を始めた背景についてご紹介します。
ハーバード・ビジネス・スクール=通称「HBS」は、ハーバード大学に1908年に設立された世界最古のビジネススクールのひとつである。2年制フルタイムの大学院(MBA:経営学修士)と、数日から計3年のものまで約80のプログラムからなる企業幹部向けの教育を提供している。ケンブリッジ地区にあるハーバード大学のメインキャンパスからチャールズ川を渡ってボストン市内側に、美しい建物が立ち並ぶ独立したキャンパスを有する。
「Educate Leaders Who Make a Difference in the World:世界を変えるリーダーを育成する」という理念のもと、MBAは1学年で約930名、全体で約1850名が在籍し、企業幹部向け教育には年間計1万人を超える参加者が集まる。ハーバード大学の一大学院ながら、教授数は231名、教授・学生を支えるスタッフは1541名にのぼる(2015年度)。年間の収入は7億ドル(約770億円)を超え、ちょっとした中堅企業並みの規模だ。
MBAには、大学卒業後に数年以上のキャリア経験を持った、20代半ばから30代前半の学生が世界各国から入学してくる。倍率は約10倍で、かなりの難関だ。2015年に入学した学年は、42%が女性で、北米以外の国の出身者は約30%。MBA前のキャリアは、金融、ハイテク、コンサルティングが多いが、事業会社、政府機関、NPO、軍隊出身の学生も一定数いる。
1年目は「セクション」と呼ばれる組に分かれ、約90名のセクションメイトと丸々1年間、週に13コマある必修科目を一緒に受け、2年目は今後の自分のキャリアや興味に合わせて多数ある選択科目のうちから好きなものを選ぶ形式になっている。
長年HBSの代名詞だった「ケース・メソッド」
HBSの授業の特徴は「ケース・メソッド」と言われる教授法にある。
すべての授業は「ケース」と呼ばれる、ある組織の具体的な課題について記述した10数ページの教材をもとに行われる。学生は事前にケースを読み込んだうえで授業に臨み、教授はファシリテーターとして「あなたがこの組織のこの立場にいたらどう考えるか」を徹底的に学生に考えさせる形で、議論をリードしていく。そこには教授による一方的な講義も教科書も、一切ない。
ケース・メソッドの核は、異なる見解・価値観を持った人たち同士が議論をすることで、互いに学び合い、かつ自分の考えが相対的にどこにあるのかを知る、ということだ。そのためにも、多様なバックグラウンド・経験を持つ学生が集まっていることがケース・メソッドによる教育効果を最大化するための前提条件である。だからこそHBSはMBA前のキャリア、出身国、性別などがなるべく多様になるように努力している。
ケースの対象は企業が多いが、病院、教育機関、NPOについてのケースもあり、産業・地域も多種に渡り、場合によっては人や国についてのケースもある。
ケースが扱う課題も、戦略、マーケティング、会計、ファイナンス、アントレプレナーシップ、リーダーシップ、倫理、組織、など実に様々だ。学生は2年間で約500のケースを読む。つまり、アメリカの小売りのマーケティングから、シンガポールの国家経営、インドの病院のチャネル戦略、レイオフをするマネージャーの立場の葛藤まで、実に500種類の課題を自分事として考え、意思決定をし、その考えを人とぶつけ合う中で磨く経験をする。
HBSの卒業生いわく、あまりにも多くのケースを読むため個別のケースの内容はほとんど忘れてしまうが、まるで筋力がトレーニングを通じて徐々に鍛えられていくかのように、不確実な状況の中での意思決定の力がついていく感覚がある―――そしてそれは卒業後も長く自分の力として残るそうだ。500本のケースノックを経てどんな状況でも何となくどうしたらいいかがわかるようになったため「ドラえもんのポケットを持てたみたい」と表現した卒業生もいた。
かつては「教室でビジネスは学べない」とビジネススクールの意義について実業界が否定的な時代もあった。その頃から世界に先駆けてビジネス教育を提供していたHBSが編み出した手法が、むしろ現場では経験し得ない幅の状況・課題を考え議論するというケース・メソッドだったのである。
世界の多くのビジネススクールにおいても「ケース」が授業で使われている。しかし、教授が一方的な講義を一切せず、教科書も使わずに、100%ケースのみを教材として授業を行っているのはHBSだけである。いわば「ケース原理主義」だ。
それがゆえに、HBSのケースに対するコミットメント、そして投資は半端なく高い。毎年350以上の新しいケースを作成し、結果として世界に流通する全ケースの80%がHBSのケースで、年に1300万本以上のケースを販売している(2015年度)。
そのために、まず教授が研究だけではなくケース作成を含めた教育に相当なエネルギーを割く、という文化がある。議論を円滑にファシリテーションするために、最初の授業の前に90人全員の顔と名前を覚え、ひとつの授業につき、時には約10時間におよぶ準備を行う。これを週に4~6コマ担当するのは相当の労力を要するはずで、HBSで教授から「I am teaching.(今、教えている期間だよ)」と言われたら、すなわち「ごめん、今は他のことはできない」状況を意味する。
ケース・メソッドを際立たせる万全な体制
そして教授のケース作成をサポートするために、万全の体制を整えている。ボストンのキャンパスに10名強のケースライターのチームを置き、さらに、香港、上海、ムンバイ、東京、パリ、ブエノスアイレス、シリコンバレー、サンパウロ、イスタンブール、メキシコシティ、テルアビブ、ドバイ、シンガポールの世界13ヵ所に約60名のスタッフを配置している。これらのグローバルなスタッフが各地域での教授陣のケース作成や教授のリサーチのサポートを提供するのである。
私は、東京にあるHBS日本リサーチ・センターに所属するHBSのグローバルスタッフの一員で、日本の企業やビジネスリーダー、政策についてのケースを教授と共に作成することが重要な仕事のひとつである。
ケース・メソッドを支える体制として、キャンパス内の教室も同メソッドの効果が最大化するように設計されている。古代ギリシャの劇場のような馬蹄形の教室で、底に立つ教授の声が教室全体に届き、かつ教室のどの席に座っている学生の声もお互いに聞こえるように緻密に計算されたデザインになっている。教室の一つひとつがオペラハウスなみの設計という話を、ボストンの同僚から聞いたことがある。
黒板は2枚×3セットの上下可動式で、授業の流れに合わせて自在に使える。短い休み時間の間には、なんと黒板拭き専門のスタッフがやってきて、ぴかぴかに磨き上げる。また、必修科目だと同じテーマを同時並行で複数の教授が複数のセクションで教えるが、ケースの主人公がゲストとして来た場合、ゲストがいる教室と他の教室を映像で瞬時につなげ、他の教室からも質問ができるビデオシステムが完備されており、システム専門のスタッフがサポートする。
この「やると決めたら、きちんとお金も人もつけて徹底的にやって結果を出す」というのはHBSに深く根付く文化である。ケース・メソッドに限らず多くの局面で痛感してきたことだ。
仕事柄、多くの日本企業や大学との付き合いがある中でよく耳にするのは、やるかどうかを決めない、やると決めてもお金はほとんど出さない、だから結果も今ひとつついてこない、という話だ。もちろんHBSに潤沢な資金があるからこそできるのも事実だが、「やる」と決める裏には「やらない」という決断も当然ある。そのメリハリの明確さ、決めた時の推進のエネルギーの大きさ、など組織としてHBSに見習うべきところは大きいと思っている。
しかしこの数年、ケース原理主義のHBSが新たな教授法「フィールド・メソッド」を立ち上げた。その変革は2008年の金融危機と創立100周年を源としている。次回は、HBSの大改革、フィールド・メソッドの誕生についてご紹介する。