自然社教師・小野悦との出会い
中村伊一は後年編纂した『株式会社ワコール財務小史』の中で、
〈昭和二十四年の暮から二十五年の春にかけて、この約半年間の経営の切回しは、まことに劇的かつ悲愴であった〉
と淡々とした調子で書いているが、財務を任されていた中村からすればジェットコースター並の毎日だったに違いない。
すべての責任を負っている塚本幸一本人はなおさらだ。精神的にとことん追い込まれていたことだろう。経営者は孤独である。いくら川口や中村でも相談できないことがある。幸一は鬱々として思い悩み、眠れない日々を過ごしていた。
そんな昭和25年(1950年)2月のこと、創業メンバーの一人である柾木の結婚式で、宗教法人「自然社」京都教堂の小野悦という人物と出会った。
自然社とは、大阪府八尾市に生まれた金田徳光を教祖とし、森羅万象の根元たる皇大神を信仰の中心とする宗教である。人々に、人間本来の明るく素直な、自然(さながら)な心で生きていく道を示した。
大正元年(1912年)、金田は「御嶽教徳光教会」を創設。その後、「人道徳光教」、さらに「ひとのみち」と改称し、昭和9年(1934年)には東大阪市の布施に、1008畳敷の大広間のある仮本殿を落成させるまでに教勢を拡大させたが、昭和12年(1937年)、治安維持法や不敬罪に問われるなどして(「ひとのみち」教団弾圧事件)解散させられてしまう。
戦後になると「ひとのみち」を継承して、PL教団などいくつかの団体が立ち上がった。自然社はその一つで、昭和22年(1947年)、初代教長橋本郷見により創設された。本部は大阪市阿倍野区松虫通だったが、中京区両替町通夷川上ルに置かれた京都教堂は、大阪中央教堂と並んで熱心な信徒が多かった。
小野について詳しい資料は残っていないが、『自然社五十年史』に掲載されている昭和26年11月付の写真を見ると、知的な風貌の初老の紳士であったことがわかる。「ひとのみち」教団時代からの教師(信者たちの指導役)で、小野悦師と“師”をつけて呼ばれていた。
幸一にとっては、精神的な支えがほしくてならなかった時である。「難関突破の要領とは如何?」という問いをぶつけてみた。
すると小野は、
「難関などこの世にありません」
と答えた。
これにはさすがに納得できない。今の状況を難関といわずして何と言えばいいのか。
「それはわかりません。納得できません」
と幸一が語気を強めて不満を漏らすと、
「明日以降、午前6時に道場に来なさい」
と言われた。
悲しいかな、商売がさっぱりなので少し時間に余裕がある。次の日から時間を見つけては道場に通うことにした。