社員を熱狂させた松下幸之助の「250年計画」

 50年計画にはモデルがあった。松下幸之助の「250年計画」である。

 それは関西経済界における“レジェンド”だった。一代でわが国有数の家電メーカーを作り上げた松下幸之助。その松下は昭和7年(1932年)3月、天理教本部を視察に行って衝撃を受けた。

 自分は給料を払い、役職を与え、ありとあらゆる方法で、社員にやる気を出して働いてもらうための工夫を凝らしている。ところが天理教の信者たちは、給料をもらうどころか逆に率先して寄進までしながら、新本殿建設に汗をかいている。

 (何が彼らをここまで一生懸命にしてるんや……)

 天理からの帰りの汽車で考えに考えた彼は、ある結論に達した。

 それは、社員に会社の持つ社会使命をしっかり認識させ、その使命実現のための具体的スケジュールを共有化せねばならない、ということであった。

 それこそが「水道哲学」と呼ばれる“電気製品を水道水のように安価で大量に消費者に届けることこそ松下電器の社会的使命である”という考え方と、それを達成するための「250年計画」だ。250年を10節に分割し、25年をさらに3期に分け、第1期の10年は建設時代、次の10年は活動時代、最後の5年は世間に対する貢献時代とし、それを10回繰り返そうという遠大な計画だった。

 昭和7年5月5日、松下は大阪堂島浜の中央電気倶楽部講堂に、幹部社員168名を集めてそれを発表した。

「生産をしよう。生産につぐ生産をして、物資を無尽蔵にしよう。無尽蔵の物資によって、貧窮のない楽土を建設しよう。それが松下電器の使命である。本年を創業命知元年とする。『命知』とは、真の使命を知ったということである。忘れないでほしい。今ここから、この日から、人類を救済する事業がはじまるのだということを!」

 この松下の演説は熱狂を持って受け止められた。自分も賛同し懸命に努力すると、社員が1人ずつ壇上に上がって自らの言葉で語り、感動を分かち合ったのだ。一種のトランス状態と言っていいだろう。

 この時、松下は37歳という若さであった。

 関西の人間なら“今太閤”と呼ばれた松下のことを知らぬはずはない。

 後年、幸一は親友の千宗興(現在の裏千家 千玄室大宗匠)から松下を紹介してもらい、生後間もなく亡くなった長男と同じ名前で年も3つしか違わない奇縁もあって息子のようにかわいがってもらうのだが、この当時はまだ仰ぎ見る存在でしかない。それでも、

 (よし、俺もやってやる)

 と、“命知元年”を宣言したときの松下よりさらに若い、29歳の幸一は思ったのだ。

 塚本幸一という経営者の美点の一つに、先人の成功体験を素直な気持ちで吸収し、仕事に生かすという点がある。この時がまさにそうだった。

 確かに松下が“命知元年”を宣言したときには社員の間に激しい熱狂が起こり、社長の松下に対する強力な求心力が生まれたが、果たして和江商事の場合はうまくいくだろうか……それが問題だった。