大正時代から現代まで、その時代の経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーでは、日本経済の現代史が語られているといってもいい。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』を紐解きながら歴史を逆引きしていく。今回は、戦後の国際金融制度であるブレトンウッズ体制が崩壊し、揺れ動くグローバリゼーションの最初の号砲となった1971年8月15日のドル・ショックまで逆引きしよう。(坪井賢一)

たった4ヵ月で変動→固定相場へ逆戻り
「スミソニアン協定」とは

 1973年2月、日本は変動相場制に移行した。10月の石油危機で、世界が必要以上のパニックに巻き込まれたのは、変動相場制下に起きた最初の大事件だからである。2月までは1ドル=308円の固定相場制度だった。この固定レートは、1971年12月18日、米国のスミソニアン博物館で開催された10か国蔵相会議で決まったため、スミソニアン・レートという。

 この10か国蔵相会議で決まった内容をスミソニアン協定という。協定の内容は下記のとおりである。

・金1オンス=38ドル(戦後ブレトンウッズ体制では36ドル)
・1ドル=308円(同360円)
・為替変動幅(バンド)=上下に2.25%(同1%)

 以上のように固定相場制度に戻したものの、けっきょく続かず、1973年2月から3月にかけて各国は変動相場制へ移行していった。米国の貿易赤字は増大し続け、ドルが売られていったのである。

 固定相場を守ろうとすると、バンドの範囲におさめるために各国通貨当局は自国通貨を売り、ドルを買い支える必要があるわけだが、限界はやってくる。基本的な構造が変わらなければ市場を制御するのは難しいからだ。

 スミソニアン協定が成立する4ヵ月前の1971年8月15日から事実上の変動相場となっていた。それを4ヵ月で固定相場に戻したのがスミソニアン協定である。

1971年8月15日、
ニクソン大統領が突如発表「金ドル交換停止」

 1971年8月15日日曜日(米国時間)、米国のニクソン大統領は、議会にも相談せずに「金とドルとの交換停止」を発表した。つまり、戦後国際金融制度を規定していたブレトンウッズ体制を1人で崩壊させたのである。おそらく、第2次大戦後65年間で最大の出来事であろう。