どうせ外すけど、必要不可欠な“串”という哲学的な存在

 と、こまで書いて、やはり違和感が残る。そう、やはり我々が知っている慣れ親しんだ普通の串刺しスタイルでなければ、焼き鳥を食べた感じにならないのである。

 しかも、それを串から外してばらけさせるまでの過程を含めて、我々が大衆食として愛着を抱いている「焼き鳥」の概念を構成していると、筆者は考えている。バラバラの焼き鳥を食べるにしても、串を外す過程を経ないと、焼き鳥だとは言い難い。

 批判を恐れず無茶を承知で主張すると、串を外して食べても美味しい焼き鳥があるのに越したことはないと思う。「串から外して食べなければ、不快な思いをする人がいるのではないか」と忖度する無言のやり取りが、焼き鳥の味を新たな局面へと押し上げるからだ。わざわざ串に刺して調理しているのに、わざわざ串から外して食べる――。外国人から見たらナンセンスに思えるその行為に、筆者は形式美を見出す。

 どうせ外すのに、肉を一本刺しにする串。焼き鳥にとっての串は、必要ないのに、絶対に必要だという哲学的な存在なのである。無駄の中にこそ、文化は宿るものだ。

 合コンの楽しみ方を知らなかった筆者に、ある友人は「見ず知らずの初対面の女子に、サラダを取り分けてもらう時の、なんとも言えない気まずさがオツ」なのだと教えてくれた。なるほど、食材の味や調理法だけではなく、それを取り巻く「文化」も含めて料理なのだと、その時に気がついた。一生懸命働いた後に飲む一杯目のビールが格別なように、気まずさがつまったサラダには、ほかにはない味があるのだ。

 そして、さまざまな思惑が詰まったバラバラの焼き鳥も、これまた格別なものである。

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(フリーライター 宮崎智之)