新たなタイプのドラマ
――それでは各回で描かれる事件そのものについては、どのようにご覧になっていますか?
岸見 わたしもそれほど刑事ドラマに詳しいわけではありませんが、非常に新しいタイプのドラマではないかと思っています。
ライター/編集者。1973年福岡生まれ。1998年出版社勤務を経てフリーに。現在、株式会社バトンズ代表。これまでに80冊以上の書籍で構成・ライティングを担当し、数多くのベストセラーを手掛ける。臨場感とリズム感あふれるインタビュー原稿にも定評があり、インタビュー集『16歳の教科書』シリーズは累計70万部を突破。20代の終わりに『アドラー心理学入門』(岸見一郎著)に大きな感銘を受け、10年越しで『嫌われる勇気』および『幸せになる勇気』の「勇気の二部作」を岸見氏と共著で刊行。単著に『20歳の自分に受けさせたい文章講義』がある。
古賀 というと?
岸見 通常の刑事ドラマでは、犯人の犯行動機が「原因論」によって語られます。「こんな出来事があったから、ついカッとして殺してしまった」とか「恋愛感情のもつれから、思いあまって相手を殺めてしまった」とか。しかし、このドラマでは表面的な犯行動機の裏にある思いに対して、「目的論」の立場から光を当てています。
古賀 犯行の裏には、そうせざるをえなかった「原因」ではなく、それによってなにかを成し遂げたいという「目的」があった、ということですね。
岸見 ええ。もちろん事件には、過去の不幸的な出来事が影響しているのですが、「過去にこんなことがあったから殺してしまったのだ」だけでは終わらない。犯人を衝き動かしている最終的な動機は、ああなりたい、こうなりたい、という現在の「目的」なのだと。
古賀 そうですね。たとえば第3話では、殺人を犯した母親の「大事に育てた娘を、教師に奪いとられた」という原因論的な動機とは別に、「娘を通じて『生きなおし』を図りたい」という真の目的が描かれていました。
岸見 原因論がベースになっていると、視聴者はドラマ上の犯人を憎むか、同情するくらいしかできません。しかし目的論がベースにあると「もしかしたら、わたしも同じ思いを持っているかもしれない」「あの人の立場に立たされたら、わたしもそうなるかもしれない」と、もう少し深い洞察に及んでいきます。
古賀 ドラマのなかの犯人が、単なる悪人ではなく、「自分の内にある小さな毒」になっていく。
岸見 そうともいえるかもしれません。あるいは犯人のそばにいるキャラクターと自分を重ねながら、「わたしにはなにができるか」を考えさせてくれる。少なくともわたしは、このようなタイプのドラマは見たことがありませんし、これからの放送を楽しみにしています。
古賀 たしかに、庵堂蘭子も青山年雄も、それから毎回登場する犯人やその他の人たちも、すべて自分のなかにいる「わたしの一側面」なのかもしれないですね。