幼稚舎からの慶應ボーイが「キラキラの人生」を選ばない理由Photo by Yoshihisa Wada

「慶應ボーイ」に込められたニュアンスへの強烈な違和感

 私は、慶應義塾の幼稚舎に入学して以来、普通部、高等学校、大学とずっと慶應義塾で学んで来た。普通部、いわゆる中学校からはラグビーを始め、大学では3年生のときにフランカーとしてレギュラーになった。1984年の全国大学選手権では準優勝をした。大学蹴球部(ラグビー部)の設立百周年のタイミングに恵まれ、周年の行事としてイギリス遠征にも参加できた。

「生粋の慶應ボーイ」には「ボンボン」、あるいは「キラキラした人生」といったイメージがつきまとう。しかし、子どものころから「自身を強くしたい」「鍛えたい」と常に思っていた。ラグビーを始めたり、社会人になってからの海外への志向、独立への志向もすべては、それが原点にあったと思っている。

 私の祖父は、玉塚栄次郎という1902年(明治35年)生まれの人物である。東京の日本橋に生まれ、初代の玉塚栄次郎の養子となり、東京商科大学(現・一橋大学)を出た後に初代が開いた玉塚證券に入社した。才覚のある人だったらしく、2代目として会社を継ぐ一方、戦後は証券会社の近代化を図り、日本証券業協会会長や東京証券取引所の理事長なども務めている。

 祖父が60歳の若さで亡くなったのが1962年11月で、私は祖父が亡くなる半年前の5月に産まれている。私自身に祖父の思い出はまったくない。だが、初孫であったので随分と可愛がられていたという。祖母から「あんたはおじいちゃんの生まれ変わりで、バトンを受けたのだよ」といつも吹き込まれていた。

 父は、玉塚證券を継いだが、昭和40年のいわゆる證券不況の波に飲み込まれる。もはや地場の証券会社が上得意客を相手に證券商いを続けていける時代は終わり、情報化を軸とした再編と大規模化のうねりが押し寄せていた。玉塚證券は1967年に同業地場の山叶證券と共に大商證券に吸収合併される。

 これが新日本証券で、後に新日本証券は和光証券と合併し、さらに2009年にはみずほ証券と合併し、現在のみずほ証券になる。

 新日本証券が誕生した、つまり玉塚證券がなくなったのが私が5歳のときだ。それが幼心にも強烈なショックとして記憶された。父は新日本証券の役員に就任して生活に困るわけではなかったが、それでも曾祖父が開き、祖父が大きくした証券会社がなくなった事実そのものが、私のDNAのようなものになっていた。

 慶應義塾では、将来は親の会社を継ぐのを暗黙のうちに受け入れている経営者の2代目、3代目などの子息が周りに多くいた。しかし私は、「自分は違うのだ」といつも思いながら過ごしていた。「継ぐべき会社はもはやない。自分自身が祖父のように切り開こう」とずっと思い続けていた。

 簡単に言ってしまえば、「捲土重来」の思いである。それが私自身の“レバレッジ”(梃子)になっていた。