異様な雰囲気に胸騒ぎを抑えきれなくなった隆嗣が咎める。
「どうしたんだ、建平。何か言いたいことがあれば言ってくれ」
それでもしばらくのあいだ口を閉ざしていた建平だったが、ようやく隆嗣へ顔を向けると、その目に涙が浮かんでいるのを見て、隆嗣の方が絶句した。
「君は知らないんだ。知らないままだったんだ……」
そう言った建平が深く息を吸い込む。隆嗣は瞬きもせず建平を見据えた。
「話すことが、君にとって良いことなのか悪いことなのか。しかし……君は知らなくてはいけないのだろう」
隆嗣は悪い予感がして生唾を呑み込んだ。
「立芳は、彼女は死んだんだ。あの夜に」
この男はいったい何を言っているんだ。悪い冗談なら笑って済ませてやる、早く冗談だと言ってくれ。しかし建平の潤む目が、そんな隆嗣の望みを拒絶する。
今まで自分を中国で生かしてきた19年に及ぶ存在理由を否定された隆嗣は、全身から力が抜けていくのを感じた。ようやく一言だけ絞り出した。
「なぜなんだ」
隆嗣を諭すように、建平が順を追ってゆっくりと話し始めた。
「俺は成り上がってここまできたが、あの日のことを決して忘れることはなかった。だから、培ったコネと金を遣って、あの日上海で何が起きたのかを調べ続けていたんだ。さすがに公安の壁は厚くて苦労したが、当時の政治指導者たちも、ようやく過去の存在と見られるようになったからね、公安の脇も甘くなってきて、事件の全容が見えてきた。
そして、その時に一人の犠牲者が出たことも知った……。
北京の、天安門広場の騒動が上海まで及ぶことを危惧した公安が、運動のリーダー格になりそうな者達を秘密裏に取り除くことを企図したらしい。活動家の中に送り込んでいた公安の犬を使って誘導し、北京へ行くという餌で、人目につかないように活動家を集めることに成功したのさ」
「公安の犬……」
耳慣れぬ隠語を確認するために、隆嗣が口を挟む。
「スパイさ。そいつに踊らされた俺たちは、北京行きのトラックに乗って民衆の闘いの最前線へ行けるのだと興奮していた。しかし、あの夜、約束の場所に現れたのは、北京行きのトラックではなく、武装警察隊だったというわけさ」