そこまでは李傑から聞いた話と同じだ。建平が目を閉じて話を続けた。

「正直言って、立芳がなぜそこにいたのか、俺にも判らない。俺が出た最後の集会でも、彼女は北京行きを拒否して、みんなの無事を祈ると言っていた。しかし、俺が手に入れた公安の報告書には……ほとんどが黒く塗りつぶされた極秘資料だったが、犠牲者1名、江立芳。死因は頭部への強度な打撃による脳内出血、そう書いてあった」

 そこまで一気に話して、建平も黙り込んだ。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか、能面のように感情の失せた隆嗣を危ぶみながらも、建平は伝えなければならないことがまだあると自分を奮い立たせた。

「君には辛いことだろうが、もう一つ話しておくことがある」

 隆嗣が生気を失った瞳を向ける。

「公安の犬のことだが、それは……李傑だ」

 建平が言いたいことを半ば予測していた隆嗣だが、やはり指摘されると胸が痛んだ。

「李傑が君に何と説明したのかは知らないが、北京行きのトラックが手配できると、我々をしきりにけしかけたのは彼だった。考えてみてくれ、いくら逃げ出したとはいえ、学生運動の経歴を持つ人間が、共産党員になれると思うか? しかも、その中で常務委員まで出世できるはずはないだろ?
  公安の調査はそんなに甘くない。つまり、最初から奴は公安と繋がっていたんだ……。後から判ったことだが、あいつの父親は、江蘇省共産党委員会の幹部だった。奴も、共産党員を世襲した小皇帝の一人さ」

「信じられない」

 ポツリと隆嗣が漏らす。いや、信じたくないのだろう。建平はそう思った。

「事実を知っている男がいる……。実は、陳祝平の居所を知っているんだ。会ってみたいと思わないか?」

 隆嗣の顔へ微かに血が戻る。

「祝平が……どこにいるんだ?」

「さっきも言った通り、方々のコネに金をばら撒いて最近得た情報なんだ。彼は思想改造収容所に15年間囚われていたが、4年前に制限つきで出所できたらしい。今は、四川省の農村にいる。正直に言うと、彼の行方を知った時に戸惑ってしまった。逃げ出した俺には、彼に会わせる顔がないんだと……。
  だが、君は違う。君には事実を知る権利がある。祝平に会ってみないか。いや、会ってほしい。あの夜の当事者から真実を聞いてくれ。李傑が公安の犬だったのか、仲間たちはどうなってしまったのか……。そして、なぜ立芳が犠牲になってしまったのか」

 建平の興奮した声を耳朶に受けながら、隆嗣は水割りを手にとって一気に飲み干した。そのグラスを勢いよくテーブルに戻すと、大きな衝撃音が響いた。それを合図にしたかのように建平の声も止み、二人は静寂の中で時間の経過に身を任せた。

 開かれたガラス戸の先、ベランダの下に見える湾から、さざ波の音さえ聞こえてくるのではないかという静謐さの中であったが、実際には摩天楼の頂点まで届くはずもなく、ただ潮風だけが遠慮なく吹き付けていた。

「謝謝」その一言だけを王紅へ向けて発した隆嗣が、エレベーターの中へ消えた。それを見送った彼女は、横に佇む夫へ、勇気を絞り出して尋ねる。

「あなたがずっと胸に貯めていた澱は、少しは消えたのかしら?」

 建平は首を振った。

「俺が背負っていた重石を、あいつに投げてしまった。酷いことをしてしまったのかもしれない。今の俺には君がいるが、あいつは19年間も一人で抱え込んだままだったんだ」

 潤んだ瞳を床に伏せ、王紅は夫の手を取って強く握り締めた。

(つづく)