万年筆で書くと
「ヘタウマ風」に見える

 だが万年筆で書くと下手は下手なりに「ヘタウマ風」に見えて、心が慰められたものだ。このご時世に万年筆が好きですというとよほどの筆まめと思われるが、実は私はひどい筆不精で、年賀状すら書かない。万年筆はひたすら「字が汚い」という現実から逃避するための道具なのである。

 字がうまいからといって立派な人とは限らない。いや、書く文字の美しさとまるで似つかわしくない好ましからざる人物など、いままでだって何人も見たし、逆にひどい字を書いていても知性に溢れている人だって知っている。だから、私だってこれでいいのだ、というかどっちだっていいのだ、と思う。思いたい。にもかかわらず、人の「汚い字」を見ると「フン、ひどい字だねえ。」と侮る自分もいるのだからどういうことか。結局負け惜しみを言っているだけで、実は人も羨むような美しい字を書いてみたいのだ。

 そんな訳で振り返れば10年に一回くらいのペースで「ペン字練習帳」的なものを買ってしまう自分がいる。今度こそと思って練習帳を買ってきて、ちょろっとやって、すぐあきらめて。忘れた頃にまた今度こそと思って買ってきて、を繰り返す。しかし私ももう50を過ぎた。そろそろはっきりさせる時なのではないだろうか。あきらめるならあきらめる。本気出すなら出す。

 そんなときに目に飛び込んできたのがこの本だ。表紙いっぱいに汚い字が踊っている!その汚さに引き寄せられてしまった。

“何というか、筆跡そのものが子供っぽくて拙いのだ”

“せめてもう少し大人っぽい字がかけるようになりたい”

“練習すれば字はうまくなるのか”

“どうすれば字はうまくなるのか?”

 何かもう悲鳴をあげているような表紙で、まさにそれは私の切実な思いと重なるものなのであった。

『字が汚い!』の著者である新保さんが、字が綺麗な人から汚い人まで様々な人に会いに行き、彼我にどんな差があるのかを解き明かそうとする。下手でも味がある字を書く人は、どんな道のりでその境地にたどり着いたのか探る。ペン字練習帳に取り組んでみる。ペン字教室に通う。さいごは神頼み。絵馬に願いを書くにも如何にとやせん、この汚い文字…。

 とにかくのっけから心当たりありまくりの「汚い字あるある」が次々に書かれていて、うなずきっぱなしである。字が汚いと真面目に書いても説得力がなく、ふざけているように見えてしまう悩み。そうなのだ。

 香典袋に名前を書く時など、ふざけてる、いい加減と思われたくなくて、私はとうとう名前のゴム印を誂えた。「明らかにゴム印だから手書きじゃないから心がこもっていない」と疑われるリスクもあるが、「何と汚い殴り書き」と思われるリスクに比べたらまだマシという判断である。芸名と本名と二本つくったが、注文する時すごく恥ずかしかった。