もちろん、家族が自宅で一緒に過ごすことの精神的な満足感は、介護する側・される側の双方にあるので、自宅介護を一概に否定するつもりはないのだが、自宅介護に伴う「機会費用」は、社会全体としても小さくないはずだ。

 施設の近くに家族が住み、頻繁に施設を訪れるようなスタイルが合理的な場合が多いのではないだろうか。

墓なし・坊主なしは楽だ!

 詳しくは、この連載の『「墓なし・坊主なし」の弔いをやってわかったこと』(2016年11月30日)に書いたのだが、山崎家では、お墓を撤去して先祖のお骨をNPO法人・終活支援センターに依頼して、海に散骨した。同時に、それまで長年付き合って来たお寺と縁を切り、仏壇も撤去して、縁の近い故人たちについては、明るい場所に写真を飾って、毎日写真に語りかけることにした。その結果、狭い仏壇に閉じ込めておくよりも、故人たちを断然身近に感じるようになった。

「(5)お墓・お寺と縁を切って、弔いはシンプルに」が、山崎家の方針だ。宗教に関しては、まさに人それぞれなので、無宗教を積極的に勧めるつもりは、筆者にはない。しかし、少なくない人が信仰心からではなく、惰性でお寺やお墓と付き合っていて、多くの場合、お墓がいわば「質」に入っているような状態で、お寺と縁を切れないことが負担になっているようだ。

 筆者の家の場合、筆者の母親の行動力に感謝するべきなのだが、お墓・お寺等について、一度スッキリ整理すると、子々孫々にわたって後が楽だ。

 昨年、筆者の父が亡くなった時にも、家族はゆっくりと別れを惜しむことができて疲れなかったし(世のお葬式の多くは、ただでさえ悲しい遺族を、なぜあんなに疲れさせるように運営されるのだろうか)、費用も非常に安かったし(節約した訳ではないが37万円であった)、総体として心のこもったお見送りができたと満足している。

 繰り返すが、無宗教の勧めではない。信仰心があるならそれに従えばいいし、信仰心がないなら少々行動力を発揮することに大きなメリットがあることをご説明したまでだ。