まず政治家と官僚には基本的な役割分担がある。

 官僚は日々、所掌する分野について深い知見を持てるよう努力し、政治に対して適切な政策具申をする。場合によっては政策選択肢を提示することも求められる。

 政治家は政策に対して最終的に判断をする。国民に対して責任を負うのは選挙で選ばれた政治家である。一旦、最終的な判断がなされれば、官僚はその政策実現に注力する。政治家が国益を実現するために政策を考えるとすれば、必ず官僚の専門的な知見が必要となる。

 このような政策形成・実現のプロセスにおいて、「政」と「官」の判断基準が異なることはあり得る。

 政治家には選挙に向けて支持率を上げたいという願望があり、これは非難されるべきことではない。国民に人気のある政策を進めたいと考えるのは自然なことである。

 他方、官僚は専門的見地から短期よりも中長期的な国益も念頭に置かねばならず、国民に不人気な政策だったとしても実現するべきと主張する。

 あまり単純化することもできないが、例えば、短期的には国民に痛みを生む財政再建のための消費税増税の議論や、外交分野では反中・反韓の世論が強い中での対中関係、対韓関係改善の議論ではそのような要素がある。しかし官僚が論を尽し、政治家が違う判断をしたとしても、最終的には官僚は国民に選ばれた政治家の判断に従う事は当然のことである。

官僚は専門的見地から政策具申
国民から付託された政治家は最終決定権を持つ

 したがって、官僚が強い政治権力に対して直言するには「職を賭す」くらいの覚悟が必要であり、これはプロフェッショナルとして究極的な選択である。

 私自身、何度も「職を賭す」という思いに駆られた。ただ内心、「政治指導者に対してきちんとプロフェッショナルに説明すれば聞いてくれるだろう、それによって左遷、更迭されることはあるまい」と言う気持ちがあったのも事実である。

 例えば1996年2月の日米首脳会談を前に、橋本首相から「普天間(基地)返還をクリントン大統領に直接提起したい」と言われ、「突然、最初の首脳会議で提起されることは日米の信頼関係に傷をつける」と慎重意見を述べた時、また、2002年に小泉首相に対して「靖国(神社)訪問は外交に重大な支障をもたらす」と懸念を説明した時、あるいは「拉致被害者の日本帰国は子どもたちを平壌に残しているので一時訪問を前提としており、北朝鮮に一旦、戻さないと将来の交渉は頓挫してしまう可能性が強い」と説明した時、いずれも強い心の葛藤があった。