昨年3月に長年勤務していた東大病院という組織を離れ、現在はどこにも所属することなく、「ひとり」という状態を満喫している矢作直樹医師が、新刊『今を楽しむ』で率直に語った、「ひとりは寂しい」という世間の思い込みに振り回されることなく、ひとりであるという自由な時間を有意義に過ごす秘訣を紹介します。

ひとりで死ぬのも悪くない

矢作直樹(やはぎなおき) 1956年、神奈川県生まれ。81年、金沢大学医学部卒業。その後、麻酔科を皮切りに救急・集中治療、内科、手術部などを経験。99年、東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻および工学部精密機械工学科教授。2001年、東京大学大学院医学系研究科救急医学分野教授および医学部附属病院救急部・集中治療部部長となり、15年にわたり東大病院の総合救急診療体制の確立に尽力する。16年3月に任期満了退官。 著書には『人は死なない』(バジリコ)、『天皇』(扶桑社)、『おかげさまで生きる』(幻冬舎)、『お別れの作法』『悩まない』『変わる』(以上、ダイヤモンド社)など多数がある。
撮影:松島和彦

 メリットがあるにもかかわらず、世の中は「ひとり=悪、ひとり=なってはいけない」というイメージがあるように見えます。

 とくに最近は、「孤独死」という言葉にそれが象徴されています。

 医師として私は、孤独死をそれはたくさん見てきました。

 孤独死であることを目にしても、私はとくに何も感じませんでした。というのは、それは結果なので仕方がないことなのです。ですから、すべて孤独死とは、社会的に言えば個人がどう生きたかという結果でしかありませんし、もっとはっきり言えば、あちらの世界に行ってしまえば、どうでもいい話にすぎないだろうととらえています。

 ですが、少し前まで私は勤務医という立場でしたので、あえて言わせていただくと、医療現場のスタッフは孤独死を手続き上少々面倒なものとして認識しているものと思います。

 そこには、変死(異状死)という共通の認知があります。

 変死というのは、いわゆる病死や自然死ではない死に方の疑いがあるケースです。つまり、犯罪による死の疑いもある、という意味です。

 こういった状況では、かかりつけ医による死亡確認ができない、死亡診断書が出せないので基本的に警察案件となり、警察内で担当する検視官が検視を、そして監察医が検案を実行して死体検案書が出る、といったプロセスを踏むことになります。

 そう聞くと、「恐ろしい」と多くの方が感じるかもしれません。

 実際にメディア(とくにテレビ)では、ひとり身の高齢者の日常を追いかけ、自由で快適にすごしている場面は編集で大幅にカットする半面、加齢で不自由になった身体機能や、家族との交流が少ないといった側面をわざわざクローズアップするものです。

 ひとりで暮らすとこんなに不便、生きているのに寂しくて切ない、ひとりで死ぬと周囲に迷惑をかける―メディアは常にネガティブな面ばかりに訴えます。

 では、ひとりで死ぬのは恐ろしいことでしょうか?

 私が先ほど書いたのは、医療、警察、行政という、ある特定の立場の人から見た、ひとり身で死んだ時の状況です。

 そういう立場の人たちにとっては、確かに孤独死は面倒かもしれません。

「余計な仕事を増やしてほしくない」
「家族仲のことなんて知らない、とにかく一緒に住めばいいのに」
「特養(特別養護老人ホーム)か介護付き有料老人施設にでも入ればいいのに」

 そう考える人たちも世の中には大勢います。

 独身者や高齢者はひとりで死なれると面倒くさくて困る、だから誰かと一緒に住まわせるか施設に入れるかしたほうがいい、という考えがすけて見えます。

 これを、私たちの立場で見てみましょう。

 私たちはひとりで暮らすか、誰かと暮らすかを自由に選択できる権利を生まれながらに保持しています。この権利は誰にも奪われません。

 したがって、「ひとり身は孤独、孤独な人はダメな人」という風評による同調圧力はいかがなものかと思います。

 ひとり身で暮らした上で亡くなることも、また自然なことです。

 人が人として生きるため、生まれた時点から死ぬまで持ち続ける権利、それが基本的人権です。皆さんにも私にも、この権利があります。ひとり身で自由に生活し、自由に死ぬ権利は、基本的人権の「自由権」に相当します。

 実際に、個人の尊厳を守りながら個人が自立できるようにしていけばよいのではないでしょうか。従来から高齢者が住みやすい環境を整えることが言われてきましたが、人としてはふだんから社会とつながりを持つことが大切です。