成績優秀者には授業料の全額免除を

 前掲のOECDの報告によると、日本は教育支出に占める家計の負担の割合が大きい国であり、とりわけ高等教育においてその傾向が顕著であるとされている。すなわち、日本は「(大学の)授業料は高いが、学生支援の仕組みが比較的整備されていない国々」のグループに位置づけられている。

 これを具体的な数字で見ると、高等教育における私費負担の割合はOECDの平均が31.1%であるのに対して、わが国は66.7%と倍以上であり、しかも50.7%が家計の負担となっている。これでは貧しい家庭の子どもは大学に進学できそうもない。教育の格差が云々される所以である。

 どのような社会であれ、所得階層が固定化され、いわゆる「成り上がり」の道が狭まることほど社会の閉塞感が強まることはないと考える。勉学に志す優秀な若者には、常に広い道を開けておく必要がある。

 たとえば、国公立大学で、親の所得を勘案して、貧しいが優秀な学生には定員の10%程度まで(数名の例外措置では制度としての意味をなさない)授業料を全額免除すると同時に、奨学金(学生ローンを含めてもいい)で100%生活できるような仕組みを作ってはどうだろうか。そして、そのための財源としては、極論すれば、残りの90%の一般学生の授業料を値上げしてもいいと思う。大学院もまったく同様に考えていい。

 そのような仕組みがあるだけで、生まれた家庭がたまたま貧しくても勉学に志す若者の胸には大きな希望の火が灯るのではないだろうか。また同時に、中学校や高等学校の教師にとっても生徒指導が格段に行いやすくなると考える。

 わが国の発展のためには、親の所得階層に関わりなく子どもの意欲と能力次第で誰もが「成り上がれる」仕掛けを、社会の中にしっかりとビルトインしておく必要がある。そして、その主戦場はやはり大学や大学院をおいて他にはないだろう。

 教育改革については、どちらかと言えばリーダー(エリート)教育や英語教育の是非が取り上げられることが多い。また、(わが国の)歴史を学ぶことの重要性を指摘する人も多い。いずれにも決して反対するものではないが、私はわが国の将来を見据えれば「大学院の軽視」「(青田買いによる)勉強させない大学」「費用のかかる大学・大学院」の3点セットこそが最も緊急を要する改革対象だと思えてならない。そして、それは決して教育界だけでのタスクではなく、むしろ需給サイドである企業・社会の側のタスクなのである。

 今回は、大学を中心とした議論に終始してしまったきらいがあるが、最後に蛇足を一言付け加えておきたい。人間が学ぶ場所は決して大学・大学院に限られるわけではない。著名な哲学者が喝破した如く、人は「世間という大きな書物から学ぶ」のだ。


(文中意見に係る部分はすべて筆者の個人的見解である。)