この状況は80年代のバブル発生以降も変わらず、公定歩合の引き上げを求める日銀に対して大蔵大臣が「白紙撤回」を命じたり、引き下げを渋る日銀に自民党幹部が「総裁は首だ」と公言したりするなど、中央銀行の独立性について考慮されることはなかった。

独立性を与えられた改正後も
政府とのバトルは続いた

 こうした大蔵省との“主従関係”が変わったのは、98年の「新日銀法」施行からだ。

 新日銀法では、第三条で「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない」と規定され、初めて中央銀行の独立性が明文化された。

 そして金融政策は、3人の正副総裁に6人の審議委員を加えた、9人の合議制で多数決により決定されることになった。

 ただ、新日銀法は、第4条で「日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」とも言っている。政権と違うことはさせない、という趣旨にも読める条文だ。

 新日銀法施行以降、日銀はこの3条の「自主性」と、4条の「政府との十分な意思疎通」の間で揺れてきたのだ。

 表向き「独立性」は強化されたとはいえ、現実は日銀と政府が対立する局面は続いていた。

 最初に対立が先鋭化したのは、2000年8月の「ゼロ金利解除」だ。

 時の日銀総裁は速水優氏。何があっても「円高擁護」の姿勢を崩さず、財務省と対立した人物だ。当時のゼロ金利を解除しようとした日銀に対して 政府は新日銀法で認められた「議決延期請求権」の提案を行って対抗したが、最終的に押し切られる。

 そして06年3月には福井俊彦総裁の下で量的緩和政策解除を行い、7月には利上げを実施した。このときも政府は反対したが、福井氏は「日本経済は健全な歩みを示すところまで前進してきた」と強調して押し切った。

 いずれも、新日銀法で認められた独立性を重視し、意見の食い違っていた政府を抑え込んだ形となったが、結果的には2000年も06年も失敗だったという評価が一般的だ。