1972年に「あさま山荘事件」を起こすなど、あの時代に強烈なインパクトを残した極左暴力集団(過激派)の一つ「連合赤軍」。殺人罪、死体遺棄罪、強盗致傷罪など計31の訴因で起訴され、懲役20年の刑を受けた元連合赤軍活動家、植垣康博さんに左派の衰退や事件について聞いた。1回目のテーマは大学紛争、連合赤軍、獄中など。(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)
最初は石とゲバ棒ぐらいのものが
火炎瓶、銃、爆弾……
――1998年秋に出所し、今秋で20年目。そして山岳ベース事件、直後のあさま山荘事件からは約半世紀たちますが、あのころを思い出すことはありますか?
しょっちゅう、ほとんど毎日です。だいたい店に立つと、どうしてもお客さんとその話になる。お客さんも私のことを知っていますし。なので私は当時の話をしたり、刑務所の話をしたり。事件を思い出すというよりは、常時脇にある感じです。
――68年の弘前大学入学から、72年のあさま山荘事件直前に軽井沢駅で逮捕されるまで、あの時代に何があったのかを振り返っていただけますか?
沖縄問題をめぐる政府側のやり方に反対する闘い、それが大きかったですし、もう一つはベトナム戦争に反対する闘い。それらが大学の中で活発になっていました。それまでの大学闘争と大きく違っていたのは、それまでの闘争は左翼党派中心の運動。それに対抗する形で全共闘運動、つまり個人参加の闘い。大学闘争が盛り上がって、無期限ストライキとか、どんどん学生がなんらかの形で関わりました。そういう中で、全共闘に対して大学側というか政府側は機動隊でもって、つぶしにかかった。
機動隊との攻防がものすごく激しくなった。最初は石とゲバ棒ぐらいのもんでしたが……。ヘルメットは警棒に対する防衛で始まった。あれはファッションじゃないですからね(笑)。そこから始まって火炎瓶、銃、爆弾……。武装するしかないという動きが出てきて、それがどちらかといえば党派の人たちは、そういう戦いをやると自分たちの党派がつぶされてしまうということで……。