前橋育英(群馬)が悲願の初優勝を成就させて幕を閉じた第96回全国高校サッカー選手権大会決勝は、全国にあまたいる名将のなかでも屈指の2人が、将棋の指し合いを彷彿させる采配合戦を展開した一戦でもあった。若かりし頃に放った真っ赤な情熱を、年齢を重ねるごとに戦術と戦略でオブラートした智将型の流通経済大学柏・本田裕一郎監督(70)が「エース殺し」戦法で守りに徹すれば、金八先生にも似た闘将型の前橋育英・山田耕介監督(58)は大一番へ温存していた超攻撃的な秘策の封印を解き、後半終了間際に値千金の決勝点を奪って男泣きした。名将たちは、ギリギリの局面で、どんな判断を下したか。高校サッカー史に残るだろう名将の采配合戦を改めて振り返る。
古希を迎えた流通経済大学柏の名将・本田裕一郎
幾度となく「子どもたちは」と口にしては、一瞬の沈黙をへて「生徒たちは」と主語を言い換えた。昨年4月に古希を迎えた流通経済大学柏(千葉)の本田裕一郎監督にとって、預かる高校生たちは子どもどころか、年齢的には孫と言ってもいい。
年末年始の風物詩になって久しい全国高校サッカー選手権。3年ぶりに戻ってきたヒノキ舞台で、10年ぶり2度目の頂点に挑んだものの、1月8日に埼玉スタジアムで行われた決勝で前橋育英(群馬)に屈した。延長戦突入かと思われた後半アディショナルタイムに、両校ともに無得点が続いた均衡を破る決勝点を奪われた。
試合後の記者会見場へ拍手で迎えられた本田監督は、長く切磋琢磨してきたライバル校の初優勝を称えるとともに、必死に戦った選手たちを笑顔でねぎらうことを忘れなかった。
「今日は守備的に戦わざるを得なかった。マエイク(前橋育英)の攻撃力は、ウチよりも上でしたから。負けに不思議なしと言われるように、負けるべくして負けたかなと思っています。私以上に生徒たちは悔しいはずですけれども、終わってみれば、よくここまで来られたかな、というのが正直な感想です」
静岡東高校から順天堂大学をへて、1970年に市原市教育委員会に所属した。サッカーを普及させるために巡回指導に携わっているうちに現場で教えたいと望むようになり、翌年に市原市立五井中学校に赴任。教える楽しさに目覚めると、高校サッカーで勝負したい気持ちが頭をもたげてくる。
公立高校の教員採用試験に合格して地方公務員となり、新設された県立市原緑へ赴任したのが1975年。実に44年目を迎えている高校サッカーの監督人生は、いまでは問題視されかねない、体罰も辞さないスパルタ指導とともに幕を開けている。
昨年9月に千葉市内で、古希を祝う会が盛大に催された。市原緑時代の教え子の一人で、後にJリーグの鹿島アントラーズでプレー。2015年7月から約1年8カ月間、アントラーズの監督も務めた石井正忠氏(現大宮アルディージャ監督)は、会場で交わした恩師とのやり取りをこう振り返る。
「私たちOBに対して、当時は指導の選択肢としてスパルタしかなかったと本田先生は言っていました。高校サッカーは、短期間で結果を出さなきゃいけない。飛び抜けた選手がいない田舎のチームを強くさせるために、一番早い方法を選んだんじゃないかと。いまでは高校での3年間があるからこそ、自分があると思っています」
全国大会を制覇した実績を持つ強豪・習志野へ異動し、サッカー部監督に就任した1986年を機に、スパルタ指導や体罰を封印。テクニックをベースにしたサッカーを標榜し、中体連ではなくクラブチームでテクニックを培った個性的な選手を自らの指導でさらに伸ばす指導を目指して、南米などへの海外遠征も実施した。