一説によれば、バブル期の日本には、30万人を超える「留学生という名の労働者」があふれていたという。オーバーステイの不法滞在者や密入国者も急増し、在日中国人による荒っぽい犯罪が連日のようにニュースになっていた時代でもある。

 88年9月23日、上海出身の有名歌手だった謝鳴も、すべてをかなぐり捨てて、一介の留学生として来日を果たす。その目的は何だったのか。やはり、カネだったのだろうか。

工場でのバイト生活から
夜の歌舞伎町を目指すまで

 中国での恵まれた生活から一転、他の留学生たちと同様、謝鳴もバイト漬けの苦しい生活をスタートさせた。

「初めて住んだのは、中板橋の朽ち果てそうな一軒家です。家賃は7万円ぐらい。中国時代から付き合っていた私の恋人と、私の弟が先に来日していて、3人で住み始めました。一番困ったのはやっぱり言葉です。最初はまったく日本語がわからなかったので、いつも迷子になるんじゃないかとびくびくしてました」

 父親は上海の共産党幹部、謝鳴自身も中国人民武装警察部隊という安定した身分を得た上に、歌手としても成功。中国時代の彼女は、一般の中国人に比べてかなり裕福な“セレブ”だったといえる。しかし、当時の中国と日本の経済格差はあまりに大きく、中国から持参した20万円はあっという間に底を突いた。

「日本の物価の高さには驚きました。当時、中国で20万円もあれば、ちょっと田舎ならマンションを買えたし、上海でも1~2年は暮らせるお金でした。日本はなんて恐ろしいところなんだと思いましたね(笑)。とにかく働かなければ学校の授業料も払えないから、すぐに時給600円のクリーニング屋さんや、酒造工場での仕事を見つけ、バイト漬けの日々を送りました」