データとなったプライバシー
蛇の誘惑により善悪の木の実を食べたアダムとエヴァに、羞恥心や猜疑心、怒りや悲しみ、利己主義や嫉妬などの感情が芽生えた。旧約聖書のアダムとエヴァの物語は、西洋社会におけるプライバシーや個人主権の原点としても語られてきた。
もともと自然界とインターネットにはヒトのプライバシーはなかった。わたしたちは衣類や隠れ家からはじまる自然界のプライバシー技術を多く発明してきた。しかし、デジタル世界と並走するようになってから、その技術はそれほど成熟していない。
デジタル世界の外にいるときでさえ、わたしたちは裸で街を歩いているのと同じだ。データとなった人々のプライバシーはひとり歩きしている。Wi-Fiが空気の一部となり、大自然の中でさえデジタル世界に囲まれる。
厄介なことに、わたしたちが訪れるほぼすべての商用ウェブサイトは、追跡ベースの広告を呼び込み、個人データの抽出を経済化する装置となっている。そのためにアドテック企業は、わたしたちのビーコン(無線標識)を追跡する「工場」に莫大な広告費を投げ入れる。その工場のひとつがソーシャルネットワークだ。
2018年4月10日と11日の2日間、フェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグが米国上院審議会に証人として出席、発言した。8700万人に及ぶフェイスブック・ユーザーの個人データが、2016年の米大統領選期間中、英国のデータ分析会社ケンブリッジ・アナリティカによって濫用された事件に、44人の上院議員からひとり5分以内の質問が相次いだ。ザッカーバーグの予定調和の返答の中で際立っていたのは、「フェイスブックはユーザーのデータを広告主に売っていない」という発言だった。
ロビイストか顧問弁護士が用意した回答だったかもしれないが、世の中の誰もが抱く「疑念」を晴らそうとしたザッカーバーグの自信に満ちたこの発言は、逆に論理のすり替えや嘘に転化してしまう問題の根深さを世界中に印象づけた。
(続く。次回は、2018年7月2日公開予定)