殺人犯を弁護する
弁護士の正義とは?

 僕は遠藤弁護士の仏教勉強会に参加したこともあるし、夕食を共にしたこともある。その際に「殺人犯を弁護することの、弁護士の正義とは何か?」と問うてみた。遠藤弁護士の回答はこういうものだった。

「遠藤誠は仏教者である。仏教者の使命とは人を仏に出会わせることにある。だから遠藤誠は殺人者でも弁護する」

 それまで僕は、死刑の是非を自分なりに納得させることができていなかった。賛成とも反対とも言えなかったのだが、遠藤弁護士の答えを聞いて、自分なりに確信を得た。多くの人間を平気で殺す、殺しておいても良心の呵責を感じない。そんな人間を仏に出会わせるためには死刑もありだと考えたわけだ。人間が仏に出会うためには、命を賭すことが必要な場合もあるからだ。

 考えてみてほしい。どんな冷血な極悪人でも、自分が死刑になるとなれば動揺もするし、恐怖心も芽生えるだろう。絶望感や後悔など、ありとあらゆる感情が湧いてくる。特に、収監されていた部屋から刑場に連れられていく途中、そして刑場に着いて刑の執行を目前とした時、人は何を感じ、何を考えるか。人を人とは思わない極悪人でさえ、自分の死を感じた時、生命のことについて、心底何かを感じるはずだ。

 その時、自分の罪を悔いる人間もいるだろう。覚悟して素直に自分の死を受け入れる人間もいるだろう。そうでない人間もいるだろう。死刑囚の最後の瞬間はさまざまだと思うが、いずれにせよ最後に彼らも死に出会う。つまり「仏に出会う」のだ。それが、僕が終身刑ではなく死刑を支持する理由だ。終身刑では、極悪人は刑務所の中で諦念は感じることはあっても、仏に出会うことは難しいだろう。終身刑とは、いわば「極刑に値する犯罪者」が仏に出会うチャンスを奪う刑ではないか。極悪人が仏と出会うためには、終身刑ではダメなのではないか。これが、僕が死刑を支持する理由だ。

 人間は死に直面しなければ、それこそ「死」について真剣に考えることはない。このことは一般の人間でも、たとえば重病や大けがで死線をさまよったとか、余命宣告を受けたことがある人間ならわかるはずだ。僕も詳しくは述べないが、ある病気を患った。幸い、日常生活にも仕事にもさほど支障はないのだが、10年後生存率は36%。つまり、10年後には死んでいる確率のほうが高い。そのことが分かった瞬間、自分の人生に対する感じ方が変わった。そして、死刑に対する考え方も、さらに確信を深めた。人間は生きていること自体には、さして意味はない。どのように生き、どのように死ぬか、そこに意味が生じる。死刑判決を受けるような人間は、死刑を執行される直前に仏に出会うことができて、初めて人生の意味も見出すことができるのだ。

 もちろん、これは僕自身の死生観、宗教観に基づくものだ。死刑廃止論者たちの理屈はまた違ったものになるのだろう。正義のあり方は人それぞれだ。それは当然なのだが、やっかいなことに、この世の争いの多くは正義と正義のぶつかり合いであることだ。