キーロン・スミス著
(明石書店/2200円)
妊婦の血液を採取して、胎児にダウン症などがあるかどうかを検査する「新型出生前診断(NIPT)」が日本で導入されてから約5年。これまで、5万組以上の夫婦が検査を受けたとされている。
NIPTは、命の選別につながるという批判がある一方で、個人の選択の自由が尊重されるべきであるとの議論が交わされてきた。
もっとも、こうした選択肢が提供されるようになったのは、国の制度や専門家たちの意見を反映してのことだ。言い換えれば、NIPTという手段そのものが、政治過程の結果なのである。ダウン症そのものについてでも、ダウン症のある人たちへの差別についてでもなく、あくまでも“ダウン症をめぐる政治”について議論を展開するのが本書の特徴だ。
中に「社会は病を神秘化する」という印象的な引用があるが、私たちは病気や障がいを可哀相(かわいそう)とか気の毒といった特定のイメージで塗り固め、それに沿って判断を行う。それ故、障がい者の取り扱いは、極めて政治的な内容を含む。
本書で強調されるように、戦後一貫して、国家は個人の私生活の領域に関与する度合いをますます強めてきた。他方では、1990年代に新自由主義的な考えが定着し、個人の選択や自由が尊重されるようになった。また、医療費抑制の観点から、現場ではダウン症のある子を産まないよう促されるという海外の事例なども紹介されている。言うなれば、出生前診断という考え方や運用そのものが、国家介入、個人の自由選択、経済的要請という現代的事象の結節点でもあり、臨界点の象徴でもあるというのが本書の見立てだ。
ダウン症が当初はアジア人の民族的特徴の由来とされていたこと、ダウン症のある人への包摂支援は出生前診断方法の開発よりも低額で済むはずだったこと、また彼らや彼女らの寿命は延びている傾向にあることなど、一般読者からすれば、新たに知る事実も多い。
自らダウン症の子の親であるという著者の信念とメッセージは、一貫している。それは、ダウン症は障がいというよりも、人が持つ個性の一つにすぎず、それ故に社会はこうした人々を包摂できるようになって初めて完成する、というものである。
「子が誕生することと、その子にダウン症があることとの間には、本来何の関係もないはずだ」
人々が持つ個性を、その人が役に立つかどうか、経済的負担となるかどうかなどの尺度で測ろうとする言動が多く行き交っている現在、この言葉は繰り返し思い出されるべきではないだろうか。
(選・評/北海道大学大学院法学研究科教授 吉田 徹)