2008年、24歳のときに、ある日突然乳がんを宣告された鈴木美穂さん。日本テレビに入社して3年目、記者として充実した日々を送っている最中だった。3週間後、右乳房を全切除。強い喪失感、副作用に苦しんだ抗がん剤治療などを経て8ヵ月後に職場復帰した。そしてこのほど、今に至るまでの約10年間の記録を、その時々の気づき、思い、学びとともに『もしすべてのことに意味があるなら~がんがわたしに教えてくれたこと』として1冊にまとめ、2月28日に出版。今回は、職場復帰してからどのように仕事をされ治療をされていたのか、またその中で美穂さんが気づいた大切なことを、伺いしました。(構成/伊藤理子)
このうえなく孤独感を覚えた出来事がありました
──手術して約8ヵ月後に職場復帰されていますが、治療と並行しながらだったとか。。
手術後半年ほど抗がん剤治療を行い、その後25日連続で放射線治療。そしてホルモン療法を行いました。ホルモン療法は注射と服薬によるもので、服薬は約8年間続きました。
当初は、抗がん剤治療をしながら職場復帰したいと思っていました。しかし、私の場合は副作用の吐き気が強くて、出勤など夢のまた夢。その後の放射線治療も、体力をすごく使うので、とても出勤できる状態にはありませんでした。母に付き添ってもらって、何度か会社の近くまで行こうとしてみたのですが、電車に乗るのも辛く、断念せざるを得ませんでした。
そして、職場復帰後もしばらく体調が安定せず、辛い日々が続きました。
乳がん治療において、ホルモン療法は再発を防ぐための大切なものですが、始めの1年ほどはなかなか体が慣れませんでした。ホットフラッシュのような症状が出て、暑くもないのにボタボタ垂れるぐらい全身汗びっしょりになったり、すぐに疲れてしまって出社しても席に座っているのが精いっぱいという日があったり…。ホルモン療法の副作用も人によってさまざまですが、私の場合は少し強めに出たようです。ひどいときは真冬なのにタオルで汗を拭き、扇子であおがずにいられないほどでした。
──記者クラブではなく、本社の遊軍記者として復帰されたのですよね?
はい。疾病休暇明けは、現場ではなく本社のバックオフィス部門に移るのが通例らしいのですが、私の強い希望で記者として復帰させてもらうことができました。そして遊軍であれば、上司の目の届く範囲でペース配分を考えながら記者を続けることができます。会社の配慮が嬉しく、ありがたかったですね。
ただ、はじめは時短勤務で、社内でできる仕事や、記者会見など短時間で行ける単発の取材にしか行くことができなくて、私のために無理に仕事を作ってくれているのではないか、会社のお荷物になっているのではないかと不安でした。なかなか役に立てない自分がふがいなかったです。
早く以前のように取材に飛び回れるようになりたい!と願う一方で、再発・転移への恐怖もものすごくありました。記者としてバリバリ働くどころか、会社にすら来られなくなる日がまた来るかもしれない…と思うと怖くて夜眠れなくなり、睡眠導入剤が手放せない時期がありました。でも、飲んでしまうと翌日ずっと眠くて辛い。しばらくは心も身体も、不安定でした。
この頃は、通勤電車に乗るだけでもぐったり疲れしまう状態。あまりの辛さに優先席に座っていたある日、中年の女性に「まだ若いんだから、立ちなさい」と非難されたことがあります。ショックでとてつもなく悲しくなり、「私、抗がん剤治療中で…体が本当に辛くて…」と、たがが外れたように号泣してしまいました。泣きながら逃げるように電車を降りることしかできませんでした。
病気は外見からはわかりません。私が若く、元気そうに見えたのでしょうが、このうえなく孤独感を覚えた出来事でした。