岐阜県恵那市にある木曽川流域の人造湖、恵那峡。岸からすぐの小高い丘の上に、湖のつくり手の銅像が立つ。福澤桃介だ。その視線の向こうには、東洋一の規模を誇った大井ダム、その直下に日本最初のダム式水力発電所、大井発電所がある。これらも桃介がつくり出したもので、竣工から約1世紀が経過したいまなお現役で稼働している。
名古屋電燈のトップとして、桃介は木曽川の可能性に目をつけ、同流域に現存する33の発電所のうち7つの建設を企画し実現させた。文字通り「水力王」である。その生涯は、深山に生じた一滴が斜面を流れ下るうちに成長し、最後は海に注ぐ大河のように、ダイナミックであった。
1868(明治元)年、埼玉県吉見町で農家の次男として生まれる。利発な子どもで、両親が学費を工面し、慶應義塾に行かせた。走るのは速くないが、目立つのは得意だった。学校の運動会で、体操着の背面にライオンの絵を同級生に描いてもらって走ると、その眉目秀麗ぶりも手伝い、万座の注目を浴びた。その中に、福澤諭吉の次女、房とその母がいた。とんとん拍子で縁談が進み、19歳で結婚、福澤姓に変わる。
アメリカ留学、岳父の口利きによる鉄道会社への就職と順風満帆だった人生が、肺結核によって暗転する。死の恐怖に煩悶しながら病室で覚え夢中になったのが、株だった。「兜町の飛将軍」との異名を馳せ、一生かかっても使い切れない大金を手にした桃介は実業家への転身を決意、勃興し始めていた水力発電に賭けた。
桃介という経営者は、3つの特質を備えていた。
一つは、直感や感性の重視である。物事を論理だけで考えない。人によくこう話した。2と2が合わさって4になるんじゃない、時には5にも0にもなると。水力発電を主戦場と決めたのも、事業の将来性はもちろんだが、生き物を殺さず、土や岩をいじめ抜くだけで済む、という理由からだった。
東京‐名古屋間を国鉄の東海道線で頻繁に往復していた頃、窓から車内に煤煙が吹き込んでくるのに辟易し、東海道線と並行して、煤煙とは無縁の電気鉄道を走らせる野心的計画を思い立つ。実行に移したものの、大口出資者である安田財閥の創始者、安田善次郎の暗殺を受け、やむなく断念する。
機略の人でもあった。木曽川流域でつくった電力を名古屋に供給し、同地を「東洋のマンチェスター」(大工場地)にしようとしたが、名古屋財界人が協力してくれない。苦肉の策として、送電線を延ばし、電力を木曽から大阪まで持っていくことを思い付く。その結果できたのが大同電力という巨大企業だ。そのトップを務めていた時、関東大震災が起こり、大井ダムの建設資金が枯渇した。解決策をアメリカに求め、一民間企業による巨額の外債発行を目論んで、みごと成功させた。
人の適性や能力を見抜き、抜擢する才もあった。後に「電力の鬼」といわれる松永安左エ門を弟分として可愛がり、名古屋電燈から関西電気に社名を変えた同社トップの座を松永に譲っている。木曽川流域でつくり出される余剰電力の利用策についての提案を、名古屋電燈の顧問、寒川恒貞に命じ、彼から上がった「電気炉で特殊鋼をつくる」という案を採用。いまの大同特殊鋼へつながる。
桃介がその才を存分に振るったのは日本の産業化が成る以前のことで、事業家たちは思うがまま、好きなように地図を描くことができた。そこから100年余りが経過し、今度は既成の地図が役立たない時代となった。頼りになるのは、論理や戦略よりも、桃介流の直感や機略ではないだろうか。
●構成・まとめ|荻野進介 ●イラスト|ピョートル・レスニアック