福田徳三自身は数学が苦手だったというが、のちにマーシャルの『経済学原理』を下敷きに理論経済学の教科書を執筆するなど、数理経済学の重要性にいち早く気付いていた。この点はシュンペーターと同様である。2人ともワルラスの一般均衡理論やクールノーの数理経済学を重視していたが、実際にはマルクスまで含めて幅広く経済思想を研究していたところもまったく同じだ。

 中山伊知郎はこのようなエピソードも書いている。

 「クールノーのように理論の全体が数学式の整然たる体系からでき上がっているものを、数式ぬきで二十枚にまとめて報告せよ、という(福田教授の)命令にはまいった。」(★注10)

 シュンペーターの処女作『理論経済学の本質と主要内容』(★注11)は、ワルラスの一般均衡論を数学抜きで解説したものであることを思い出していただきたい。シュンペーターと福田はまったく同じ発想だったことに驚く。

中山が弟子になった1ヵ月後
シュンペーターはボストンへ…

 シュンペーターは中山がボン大学にやってきた1927年9月、ようやく母と妻子の死(1926年7-8月)の衝撃を乗り越えていた。

 4月にはグスタフ・シュトルパーの雑誌Der deutsche Volkswirt(「ドイチェ・エコノミスト」)への寄稿も再開していた。また、中山に会う1か月前の1927年8月、21歳のミア・シュテッケル(Mia Stockel)が秘書兼家事手伝いとしてシュンペーター邸に住み始めている。アニーの死から1年後のことだ。ミアの写真がハーバード大学図書館に残されていて、インターネットで公開されている(★注12)。

 ミアはアニーに負けず劣らず魅力的な女性で、シュンペーターの原稿をタイプしたり、外部からの依頼をマネジメントする秘書業務のほか、家事万般を任されていたという(★注13)。つまり、秘書兼内縁の妻である。

 中山はシュンペーターとの面談を終えると、さっそくボン大学でシュンペーターの講義やゼミに参加することになった。しかし翌月(1927年10月)、師はハーバード大学経済学部の1927/28年度の冬学期と夏学期1年間を客員教授として招かれ、米国のボストンへ旅立ってしまったのである(実際には半年後の4月に帰国しているが、ボン大学の講義再開は1929年1月)。

 中山は1年間、勉強しながらシュンペーターの帰国を待つことになるのだが、1928年春、そこにもう1人の日本人留学生がボン大学にやってきた。東畑精一である。