◇拡張する首都圏と新都心

 終戦直後、横浜の人口過密インフラの整備は深刻な状態であった。1945年の横浜市の人口は62万人であったが、1963年には150万人を突破した。凄まじい勢いで横浜に人がなだれ込んできた。こうした現象は横浜だけではなく、千葉や埼玉でも見られた。

 その背景には東京への人口と産業の一極集中を緩和しようという国の動きがあった。終戦後のベビーブームの結果、地方から若い働き手が東京に大量に流入し、戦後の15年間で東京の人口は500万人も増加した。法整備もインフラの整備も追いつかず、東京の人口は完全にキャパシティを超えている状態だったのだ。

 そこで政策として掲げられたのが、衛星都市を作り産業と人口を移転していくこと。すなわち神奈川・千葉・埼玉への首都圏の拡張であった。これによりみなとみらいや幕張新都心、さいたま新都心の開発が進められた。

◇不動産市場の減速とみなとみらいのテナント誘致

 1990年に不動産価格の高騰が社会問題となり、大蔵省は金融機関に対して、不動産融資の総量規制に乗り出した。これにより銀行が容易に貸し出しを行うことができなくなり、不動産市場から買い手がいなくなった。日本経済は底なし沼に入り込み、日本中の開発案件がことごとく中断に追い込まれた。

 1988年に「まちづくり基本協定」を締結し、横浜市・三菱地所・都市整備公団の三者が一体となり、みなとみらいの開発計画が進んだ。1989年には横浜博覧会を開催し、翌年に日本丸パークと横浜美術館がオープンした。

 横浜ランドマークタワーの完成はバブル崩壊直後の1993年となったが、「官民が協力して開発する」というコンセプトを「まちづくり基本協定」により明示していたことが寄与し、着実にテナントを集めることができた。2004年にはみなとみらい線が開通。2012年以降は企業誘致が一気に進み、脚光を浴びた。

◆横浜の原点、横浜村
◇横浜の祖、吉田勘兵衛

 もともと横浜は、けっして豊かとは言えない半農半漁の寒村であった。賑わいの中心は東海道の神奈川宿にあり、横浜は僻地であった。