ところが天正8年ごろから、理由はよくわからないが、信長と元親の関係がギクシャクし始める。そして信長は、次第に元親による四国制圧を邪魔するようになっていく。

 天正10年、信長は阿波(現在の徳島県)や伊予(同愛媛県)に別の家臣を送り、統治をさせる。当然、元親としては「話が違う」ということになる。

 光秀としても、調整役の自分を飛び越えて、信長が一方的にそれまでの約束をほごにすれば面白くないし、面目が丸つぶれだろう。調整役という自分のテリトリーに、信長がずかずかと踏みこんできたことになるからだ。

 ちなみに光秀は、本能寺の変の直前まで、両者の衝突をなんとか避けようと、必死で調整を試みていたという。

 二つ目のすれ違いは、光秀の家臣に関することだ。これは「人事」の問題といえる。

 光秀の重臣・斎藤利三は、美濃(現在の岐阜県)の武将である稲葉一鉄の元家臣だった。

 利三は一鉄とそりが合わず、けんか別れして一鉄の元を離れ、親戚だった光秀の家臣になったのだった。

 その後利三は、一鉄の娘婿で家老だった那波直治に働きかけ、光秀の家臣に迎えようとした。だが、これが一鉄にばれてしまう。

 一鉄は、その件を光秀の主君である信長に直接訴えた。すると信長は、一鉄に理があるとして那波直治を一鉄の下に戻すよう命じた。しかし光秀は、それを不服として応じようとしなかった。

 それが気に入らなかった信長は怒りをあらわにし、諸大名が見ている前で光秀を殴打して叱責した。

 それでもなお光秀は「良い家臣を持とうとするのは自分のためではなく、上様(信長)のためなのです」と言って食い下がったが、信長は一向に聞き入れなかった。

 この信長の光秀殴打事件が起こったのは、本能寺の変のわずか4日前だった。

 金子氏は、この二つのすれ違いが短期間に続けざまに起こったことが、光秀を謀反へと走らせたのではないかと考えている。