フォロワー18万人超!仏教の視点をもって、国内外の方々から寄せられた「人間関係」「仕事」「恋愛」「健康」などの相談に応える YouTube チャンネル「大愚和尚の一問一答」が人気爆発。
「実際にお寺に行かなくてもスマホで説法が聞ける」と話題になっています。
その大愚和尚はじめての本、『苦しみの手放し方』が、発売になりました。
大愚和尚は、多くのアドバイスをする中で、「苦しみには共通したパターンがある」「多くの人がウソや偽りを離れて、本当の自分をさらけ出したいと願っている」「苦しみを吐き出して可視化することによって、人は少し苦しみを手放すことができる」ということに気づいたといいます。
そんな和尚の経験をもとに、この連載では『苦しみの手放し方』から、仕事、お金、人間関係、病気、恋愛、子育てなど、どんな苦しみも手放せて、人生をもっと楽に生きることができるようなヒントになる話をご紹介していきます。
苦手な人も、嫌いな人も、会いたくない人も、
自分を成長させてくれる「人生の師」である
仏教では、「真理を学ぶとき、僧侶や宗教者だけを『師』とするのではない。世の中のすべての人たちが、優れた『師』となり得る」と教えています。
「師」という漢字は、一般的には「人を教え導く人」 「先生」 「師匠」という意味で使われます。
一方、字源(漢字の起源)に目を向けると、「䍛=積み重ねること」と「帀=あまねく行動すること」で成り立っていることから、「師」には、「多くの人々の集まるところ」 「多くの人、多くのもの」という意味も含まれています。
大乗仏教経典『華厳経(けごんきょう)』に、「入法界品(にゅうほっかいぼん)」という物語が収録されています。「入法界」とは、「法界(=覚(さと)りの世界)に入ること」です。
「入法界品」の主人公は、善財童子(ぜんざいどうじ:スダナ・クマーラ)という名の青年です。
善財童子は、文珠菩薩もんじゅぼさつの教えにしたがって、53人(数え方によって、54人とも55人ともいわれています)の善知識(仏教の正しい真理を教えてくれる人、各自の道を究(きわ)めている人)を訪ねて、素直に教えを受けていきます。
53人の中には、菩薩や修行僧だけでなく、女神、仙人、バラモン(インドのカーストの最上位に位置する、バラモン教の最上位)、船頭、医者、商人、子ども、遊女などが含まれていて、「仏法は、職業や身分、年齢や性別などには関係なく、いかなる人からでも学ぶことができる」ことが、象徴的に説き示されています。
『華厳経』は、「人間(人間社会)が持つ矛盾を突きつけるお経」だと考えられています。善財童子の旅は、人間の愚かさや危うさ、矛盾を徹底して見つめていく旅でした。
善財童子が、18番目に出会ったのが、都城ターラドヴァジャに住むアナラ王です。
アナラ王は、立派な国王として民衆の支持を集める一方で、罪人に対しては容赦なく、手足を切る、耳や鼻を削(そ)ぐ、目をえぐる、皮をはぐ、首をはねる、火であぶるといった刑罰を与えていました。
遺体の山と血の池を目の当たりにした善財童子は、義憤(ぎふん)にかられ、アナラ王に尋ねます。
「このむごたらしい光景は、まさに地獄のようです。いくら罪人といえども、ここまでする必要はあるのですか?」
真意を問われたアナラ王は、「罪深い行為をやめさせる方法が、ほかにはない。苦しみもがく罪人の姿を見せれば、人民は恐れをなして、十不善業(じゅうふぜんごう:殺生、盗み、噓いつわり、悪口など、十種の悪い行為)を行わなくなるだろう」と言って、自身を正当化しました。
じつは、アナラ王は、実際には処罰しておらず、威神力(いじんりき:お釈迦様や菩薩が使う不思議な力)を使って「幻」を見せ、人民を教え導いていました。
人は誰でも、悪行を犯す可能性を秘めている。そして悪行を犯せば、相応の報いを受けることになる。だから自制しなければいけない。
そのことをわからせるために、アナラ王は、幻術(げんじゅつ)を用いて、民衆に「仮の地獄」を見せていたのです。
また、25番目に出会った婆須蜜多女(ばしゅみったじょ:ヴァスミトラー)という名の遊女は、善財童子に、「欲望に取り憑つかれている人が私のところに来たならば、執着のない精神統一を得させよう。私の声を聞き、私を抱擁するものには、離欲を説き、解脱(げだつ)の境地に導くであろう」と答えたといわれています。
善財童子は、妖艶(ようえん)な婆須蜜多女の姿を見て、自分の根源にも、彼女に群がる男たちと同じような「欲」があることに気づくことができたのです。
殺戮(さつりく)王は無慈悲ではなく、国家の安寧(あんねい)を保っていました。
遊女は、決して汚れた存在ではなく、欲望にとらわれない境地を究めていました。
善財童子は、彼らの真意を知ることで、「誰もが自分の師になりうること」、そして、「無欲清廉(むよくせいれん)な人などいない。人はみな、愚かさを内包している」ことを理解しました。
福厳寺で葬儀を執り行う方の中には、「お見合い結婚をして家庭を築き、一生を添い遂げるご夫婦」がたくさんいらっしゃいます。
ご主人を看取ったあるご婦人に、「ご主人は、どんな方でしたか?」と私が伺うと、そのご婦人は、こんなことをおっしゃいました。
「私たちの時代は、親が決めた人と結婚するのが普通で、相手を選ぶことはできませんでした。主人は頑固で、私の言うことなんて、ちっとも聞いてもくれない。好きか嫌いか、と聞かれたら、『嫌い』と答えます(笑)。でも、この人を看取った今、満ちたりた気持ちでいるのも、事実です。この人からたくさんのことを学び、この人がいたから、私の人生があった。それは間違いありません」
「もしあのとき、今の時代のように『恋愛結婚』ができたのなら、私は絶対にあの人を選ばない(笑) 」と話されていましたが、お見合いであっても、恋愛であっても、2人は一緒になったのではないか、と私は感じています。
「苦手な人、嫌いな人、会いたくない人」との出会いは、必然であると、私は思います。あらわれるべくして、あらわれる。
なぜなら、「苦手な人、嫌いな人、会いたくない人」も「人生を教えてくれる師匠」であり、「人間的な成長」をもたらしてくれるからです。
そのことがわかっていれば、仮に「望んではいない人」が目の前に立ちはだかったとしても、受け入れることができるのではないでしょうか。
出会う人のすべてが、自分にとって、大切な人生の先生です。
だからこそ、たくさんの人から教えを請う。好き嫌いで人を選別せず、多くの人から、できるだけ教えを受ける姿勢が大切だと思います。
(本原稿は、大愚元勝著『苦しみの手放し方』からの抜粋です)