写真:岩城氏

「和敬塾」という珍しい男子学生寮がある。東京・目白台の旧細川邸7000坪の土地に、前川製作所の創業者・前川喜作氏が1955年に設立。現在も大学、国籍、宗教にかかわらず400名以上の学生が暮らす。和敬塾出身で日本弁護士連合会常務理事を務めた岩城本臣氏に、全国各地の支部活動を通し、卒塾後も深まっていく和敬塾の信頼関係を語ってもらった。(清談社 村田孔明)

夜通しの特訓により
高倍率の面接を突破

「東大よりも和敬塾に入るほうが難しい」と、長らくうわさされてきた。

 和敬塾に入れるかどうかは、前川喜作塾長との面接で決まっていた。はたから見れば選考基準が曖昧で、難関大学に受かったのに和敬塾には落ちる学生も多かった。

 1965(昭和40)年、岩城本臣氏は早稲田大学法学部に合格する。和歌山県橋本市で300年以上続く「みそや呉服屋」を営む、和敬塾出身の従兄・谷口善志郎氏にすすめられ、和敬塾の面接に臨む。

「面接試験の倍率は日によって異なりますが、5倍から10倍の狭き門です。谷口さんから、和敬塾OBで、特許庁で働く飯塚文夫さんを紹介され、面接前日に部屋に泊めてもらって、和敬の歴史や塾長の思想をみっちりたたきこまれました」

 特訓の成果が実り、岩城氏は無事に面接試験を突破する。当時、和敬塾の1、2年生は2人部屋。ルームメイトは立教大学でフランス文学を専攻する、新潟出身の間章(あいだ・あきら)氏だ。のちに音楽評論家として活躍するが、32歳の若さで亡くなってしまった。

 入塾してすぐに岩城氏は、間氏の女性問題の“弁護”を引き受けたという。間氏は「箱根に女が待っているから、オレの名札を裏返しといてくれ」と初対面の岩城氏に頼んだという。

「無断外泊は禁止ですよ。在塾かどうかはロビーに掲げられた名札を見て確認します。氏名が黒字で書かれているのは表で在塾、裏は赤字で不在。外出するときには、名札を裏に変えなければなりません。それで彼は私に、夜にこっそり名札を表にひっくり返し、帰って来たように見せかけてくれと依頼したのです」