「和敬塾」という珍しい男子学生寮がある。1955年、産業用冷凍機の国内シェアトップを走る前川製作所の創業者・前川喜作氏が都内を一望できる目白台の細川邸7000坪の土地を手に入れ、建設した。卒塾生は5000人を超え、現在も大学や出身地、国籍、宗教の異なるさまざまな学生が暮らしている。『週刊文春』『文藝春秋』の両誌で編集長を務めた木俣正剛氏は、1974年に和敬塾に入った。ジャーナリストを志した経緯、和敬塾での交流などを語ってもらった。(清談社 村田孔明)

文藝春秋に入るのは
高校時代からの夢だった

木俣正剛氏木俣正剛(きまた・せいごう) 1955年京都市生まれ。78年早稲田大学政治経済学部政治学科卒、同年文藝春秋入社。2015年常務取締役、18年退社。現在、岐阜女子大学副学長を務める Photo:Kazutoshi Sumitomo

 世の中の乱れを正すため、数々の不正を告発してきた文藝春秋。特に最近『週刊文春』のスクープは“文春砲”と呼ばれ、社会に大きな影響を与えている。ところがその陰で、昨年は人事を巡る内紛から、社内の醜態が漏れ聞こえてきた。

 取材される立場に回ると歯切れが悪くなるのはマスコミの典型例だが、文藝春秋の次期社長候補だった木俣正剛氏(当時は常務取締役)はメディアの矢面に立ち、報道機関として説明責任を果たした。そして自身が身を引くことで、事態を収拾させる。

 40年間も勤めた会社を不本意な形で去ることになったにもかかわらず、木俣氏の表情はさっぱりとしている。「今の社内は風通しがかなり良くなり、自由闊達にモノが言える本来の姿に戻りつつあります」と、決断にまったく後悔はないようだ。

 高校生のときから、文藝春秋に入り記者になるのが木俣氏の夢だった。

「地元京都では、私の中学、高校時代は左派の蜷川虎三さんが府知事を務め、また学生運動の全盛期でもあったので、自由にモノが言える雰囲気ではなかったです。京都新聞も左派一色の記事ばかり。京都市議だった父・木俣秋水は、へそ曲がりなところもあり、こうも世の中がすべて左寄りなのはおかしい、と府議会の野中広務さんと共に左派と激しく対立していました」(木俣氏、以下同)

 そこへ文藝春秋の記者が父・秋水氏を取材するために、京都の自宅まで頻繁に訪ねてくるようになる。文藝春秋の『諸君!』には、新聞が触れない左派と異なる意見も掲載された。高校生の木俣氏は「東京ではこんなに発言が自由なんだ」と憧れを抱いたという。

「最近、高校の同窓会に行くと『お前は偉いよな。ずっと文藝春秋の編集長になりたいと言っていて、ちゃんと夢を実現させたんだから』と言われました。そんなに強く文藝春秋に入りたかったか思い出せないですけど、周りからそう見えていたようです」