自分の人生の価値が3億しかないと知った日
僕はもうすぐ50歳を迎えるけれども、自分が本当になりたいモノ、本当にやりたいコトがすぐに見つかったわけではなかった。むしろ、そんなことを考える余裕もないまま、とにかくがむしゃらに前だけ見つめて走っていた時期もあった。
大学卒業時には安定したサラリーマンの道は捨て、すぐにでも起業したいと思っていた。その動機はいたって単純かつ不純で、「フォルクスワーゲン・ゴルフ/カブリオレに乗りたいと思ったから」。今と比べると円安の所為だろうか、1980年代当時で確か500万円近くもした車だったから、新入社員の給料では何年かかっても買えやしない。ここは事業でも起こしてガツンと稼ぐしかないと考えたわけだ。いくら若気の至りとは言え、今、冷静に考えると恐ろしい。
時はバブル景気の真っ只中、そんな欲望を満たすことは決して難しい時代ではなかった。でも、車を手にした瞬間の満ち足りた気分が続くことはなかった。何かが違っていた。そう、欲しいモノを手にすることを目的にして働く、それがどうもしっくりこない。自分が本当にやりたいコトとは明らかに違っていたのだ。
90年代の後半だっただろうか、親しい先輩から何気ないがきつい一言を浴びせられた。「北野さぁ、お前の夢って、何だ?」。突然のあらたまった質問に何も答えられなかった。すると、「どうせお前のことだから、都心の一等地に家を買って、高価な背広とシャツと靴が欲しいだけあって、格好いいスポーツカーと高級なセダンを何台か乗り回せれば、夢は叶うんだろ、何とも安いもんだな! お前の一生なんか、2、3億あれば買えてしまうな」。
なんと失礼な! でも、それが、僕の一生がお金に換算された瞬間だった。なぜか背筋がピンと伸びた感触を今も体が覚えている。
「衣」「食」「住」は、身の丈に合っていれば背伸びしなくていい。背伸びしてでも頑張るべきは、お金に換算できない価値を実現することだ。漠としているが方向感はそれでいい、と直感した。人生の師といい、この先輩といい、僕のまわりは、僕が迷っている時に進むべき方向を示唆してくれる絶対的信頼感のある人で溢れている。ありがたい。もったいない。