メモを見た田中氏は仰天して、「文春は恐ろしい情報網だ」と言いつつ、「我々のメモのこの部分は認める」といったやりとりができるようになりました。結果、特捜内部から見ても文句のつけようがないレポートができ上がりました。

 もちろん検察の内部の話は、一般人にあまり興味のある話ではありません。しかし、プロにとっては恐るべき情報漏れが起こったと思ったはずです。検察内部の劣化が初めて白日の下に晒されたのは、メディアの志ある検察記者たちの協力によるものだったことは、お話ししておきたいと思います。

今も問い続ける課題
「政治家に強い検察」を取り戻せるか

 結局、田中森一氏は自分を取り巻く状況に限界を感じ、87年12月に検事を辞職します。それを機に、「政治家に強い検察を取り戻すべきだ」という議論が出始めました。いや、検察の役割を理解し、愛していた記者たちが文春を使って動き出したのです。

 それは、検察が事件を潰したらそれを文春が報じ、政治家の汚職を正すには、ロッキード事件を指揮した吉永祐介氏を中央に戻すしかないというキャンペーンでした。前述の吉永氏は、84年に東京地検から宇都宮地検へと異動しており、リクルート事件に携わる前にも地方にいたのです。

 そして、宇都宮地検検事正だった吉永祐介氏が最高検公判部長として戻ってきました。さらに翌88年6月、リクルート事件が発覚します。88年12月、吉永氏が東京地検検事正に着任し、田中角栄逮捕に続く戦後最大級の疑獄、リクルート事件の捜査が一気に加速しました。

 このとき、文藝春秋に前代未聞の記事が出ました。それは、リクルート事件の捜査体制、検事たち全員のリストです。これを見れば、特捜部の総力を上げた捜査であることが誰しもかわるというものでした(その中には、次期検事総長といわれる若き日の林真琴氏も入っています)。

 協力してくれた記者と相談して、わざと1人、名前を間違えて掲載しました。情報漏洩の調査があっても、記者なら絶対間違わないという言い訳をつくるためにです。取材源を守りながら、しかし大きな観点からメディア全体が協力し合う。今はその構造が崩れかけていることを痛感します。

(元週刊文春編集長、岐阜女子大学副学長 木俣正剛)