最近、新型コロナウイルスワクチンの臨床試験で「免疫反応があった」というニュースよく耳にします。「免疫反応があった」とはどんな意味だと思いますか? ワクチンの効果があると考えてよいのでしょうか? 副作用は大丈夫? そもそも、ワクチンって何でしょう? 新型コロナウイルスのワクチンが市中に出回る前に、ワクチンについて理解を深めるため、感染症やワクチン開発の歴史について連載全5回で振り返っていきます。

年間500万人が亡くなった「天然痘」

大西睦子(おおにし・むつこ)
内科医師
米ボストン在住、医学博士。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、ライフスタイルや食生活と病気の発生を疫学的に研究。2008年4月から2013年12月末まで、ハーバード大学で、肥満や老化などに関する研究に従事。ハーバード大学学部長賞を2度受賞。現在、星槎グループ医療・教育未来創生研究所ボストン支部の研究員。著書に、「カロリーゼロにだまされるな――本当は怖い人工甘味料の裏側」(ダイヤモンド社)、「『カロリーゼロ』はかえって太る!」(講談社+α新書)、「健康でいたければ『それ』は食べるな」(朝日新聞出版)。

新型コロナウイルスのワクチンを考えるにあたり、まず、世界中の人を長い間苦しめた感染症の事例として「天然痘」の歴史を振り返ってみましょう。

世界最古の症例は、紀元前1157年に亡くなったエジプトのラムセス5世といわれます。ミイラの顔に、天然痘の皮膚病変が残っています。天然痘は、世界の人口が増えて、戦争、貿易、植民地化などによる人の移動が高まるとともに、世界中に広がりました。

日本では、慶應義塾大学鈴木晃仁教授の報告によると、最初に記録された天然痘の流行の始まりは735年で、全人口の約3分の1が亡くなったといわれています。その後1206年まで、28もの天然痘の流行が記録され、徳川時代または近世までに、天然痘は風土病としてしっかりと定着しました(※1:参考文献は記事末にまとめて掲載)。

天然痘の根絶に尽力したドナルド・ヘンダーソン医師の報告では、20世紀だけでも推定3億人、1977年に根絶されるまでの最後の100年間は、少なくとも5億人が亡くなりました。1世紀で5億人が亡くなったということは、平均して年間500万人が死亡したことを意味します(※2)。

これほど恐ろしい感染症を、人類はどうやって根絶したのでしょうか。

感染者の膿で天然痘を予防する

古くから、天然痘に一度かかって治癒した人は天然痘にかからない、ということは広く知られていました。このためアフリカ、インド、中国やトルコでは、天然痘の予防のために、天然痘患者の膿やかさぶたを、感染していない人の皮膚にひっかき傷に植え付けるなどの「人痘接種法(人痘法):variolation」が行われていました。人痘法をうけると、天然痘より軽い症状を引き起こしますが、約2~4週間後に回復します。

米ボストンでは1721年、西インド諸島からの船によって天然痘がもち込まれ、マサチューセッツ州で大流行しました。そんな中、ハーバード人文学大学院(GSAS)の情報によると、ハーバード大学を卒業したコットン・マザー牧師は、西アフリカの奴隷オネシモから接種について学びました。マザー牧師は、オネシモが「天然痘の何かを手術で与えられたこと、それが天然痘の感染から永遠に守ること、西アフリカでよく行われていること」を伝えたと言います(※3)。

ハーバード大学医学部病理学准教授ステファン・リーデル博士の報告(※4)によると、マザー牧師は、ザブディール・ボイルストン医師を説得し、人痘予防法プログラムを始めました。ボストンの公衆と医学界には多くの反対者がいて、マザー牧師の家に爆弾が投げ込まれたこともありました。それでも多くのボランティアに接種を続けました。

さらにマザー牧師とボイルストン医師は、統計的アプローチを使用して、天然痘の感染による死亡率を、人痘法による死亡率と比較しました。「世界初の、比較分析による医療の評価」といわれています。

結果は、1721年の天然痘の大流行の間、ボストンの1万2000人の市民の約半分が天然痘にかかりました。天然痘の致死率は14%でしたが、人痘法を受けた人の死亡率はわずか2%でした。人痘法の効果は明らかですが、人痘法では患者の膿を接種することで天然痘が発症したり、処置で結核や梅毒などの汚染が懸念されました。

日本では、1789年~1790年に天然痘が筑前国で発生したとき、緒方春朔医師が、子どもたちに人痘法を行い成功しました。

なぜ患者の膿が天然痘を予防した!?

今では免疫学が発達し、次のような機序が示されています。

天然痘などのウイルスや細菌などの外敵が体に入ると、数時間以内に、先陣を切って「自然免疫」が戦いにでます。敵とおぼしき相手に対しては、マクロファージ、顆粒球、NK細胞などの免疫細胞がつぎつぎと攻撃を始めます。それでも手におえないとき、より強力で効率のいい「獲得免疫」が出動します。ここで活躍するのは、リンパ球のT細胞とB細胞で、本物の敵だけを狙って攻撃します。

まず、マクロファージは敵の情報を、免疫の司令官であるヘルパーT細胞に伝えます。ヘルパーT細胞は情報をもとに戦略を立て、殺し屋のキラーT細胞に「敵を殺せ」と、B細胞に「敵を排除せよ」とそれぞれ指令を発します。指令を受けたB細胞は、敵(抗原)の情報をもとに、敵のタンパク質に特異的に結合する「抗体」を大量に作ります。それぞれ抗体は、対応する敵のみを攻撃するので、その破壊力は強力ですが、敵の顔を覚えて出動するまでに数日間かかります。

また、最初に戦いにでる抗体は「IgM」と呼ばれますが、短命で血液中に数週間しかとどまりません。次に「IgG」という抗体が作られます。IgGは血中に留まり、数ヵ月、数年または生涯にわたって免疫をもつことができます。ですので、次に同じ敵に攻撃されても、速やかに戦う準備ができています。こうして、一度かかった感染症は「免疫ができる」ため、ほとんどの人は生涯同じ感染症にかかりません。

人痘法は、天然痘患者の膿やかさぶたを感染していない人に接種し、感染の「まね」をします。体は感染したと騙されて、天然痘の獲得免疫をつくります。次に本物のウイルスに襲われても直ちに攻撃できます。当時、ワクチンという概念はありませんでしたが、すでに免疫を利用した予防法が行われていたのです。

ところで、カリフォルニア州ラホヤ免疫研究所の免疫学者シェーン・クロッティ博士は、新型コロナウイルスの感染症の免疫反応について分析し、結果を2020年6月号の科学誌「Cell」に発表しました。教授らが、新型コロナウイルス感染症から回復した20人の「獲得免疫」を調べたところ、ウイルスと戦うための、抗体、ヘルパーT細胞、キラーT細胞すべてが反応していました。この結果は、新型コロナウイルスのワクチンはできないのではないか?、という不安を一掃しました(※5)。

ただし新型コロナウイルスの正確な免疫反応については、まだまだ不明なことがたくさんあります。

多くのウイルス感染症では、「抗体反応の大きさは感染症の大きさとよく相関する」とクロッティ博士は「The Scientist」で指摘しています。言い換えれば、重症な感染症は、免疫系にとってより深く記憶に残るものです。ただし、抗体反応は人によって大きく異なる可能性があります。また、多くの感染症では、抗体だけではなくT細胞も関与します。クロッティ博士は、「抗体の反応がよくない人でもヘルパーT細胞とキラーT細胞の反応がよければおそらく大丈夫だろう。そしてその逆も同様だ」と言います。今後データが蓄積されて、新型コロナウイルスの感染と免疫の関係がつぎつぎと明らかになるでしょう(※6)。

さて、リーデル博士の報告によると、人痘法は、18世紀にヨーロッパにも導入されました。1750年代になると、人痘法はヨーロッパの貴族と大衆ともに急速に人気を博すようになりました。医療体制が割と整備されていたヨーロッパでは、人痘法が医師の間ですぐに知れわたり、医師は大々的に人痘法を開始したそうです。

そんな中、1757年の英国グロスターで、8歳の孤児が人痘を接種しました。少年はその年にイギリスで接種された何千人もの子どものうちの一人で、名前はエドワード・ジェンナーといいました。

近代免疫学の父、ワクチンの開発者エドワード・ジェンナー

エドワード・ジェンナー(1749–1823)

ジェンナーはのちに医師となり、24歳で故郷のバークレーで開業します。ジェンナーは、長年、牛の乳搾りの女性は、牛痘にかかると天然痘にはかからないという言い伝えを聞いていました。牛痘は牛の天然痘で、人に感染することがありますが、人の天然痘よりはるかに軽い症状です。そこでジェンナーは、牛痘は天然痘を予防するだけでなく、人から人へ感染する可能性があると仮説を立てました。

1796年、ジェンナーは牛の乳搾りの女性の牛痘の病変から膿をとって、8歳の少年の腕に接種しました。少年は軽い熱と不快感を得て9日後に寒気と食欲を失いましたが、翌日にはかなり良くなりました。その後、ジェンナーは少年に天然痘を接種しましたが、天然痘は発症しませんでした。こうしてジェンナーは、仮説を証明しました。

米ウィスコンシン州エドワード・ベロンギア医師らの報告によると、ジェンナーは、さらに13人の症例を追加し論文を作成しました。ところが、王立協会は、史上最悪の編集者の決定の一つともいわれる論文の拒否をした上、ジェンナーに牛痘の調査を中止することを提案しました(※7)。

ワクチンの広がりと変化への不安

リーデル博士の報告によると、その後、ジェンナーはさらに症例数を追加して、1798年に小冊子を非公式に出版しました、報告は医学界で物議を醸しましたが、ワクチン接種の使用は英国で急速に広がり、1800年までにほとんどのヨーロッパ諸国に到達しました。ジェンナーは予防接種プログラム活動を続けました。徐々に、ワクチン接種は人痘法に取って代わり、1840年に人痘法は英国で禁止されました。

多くの人は、ジェンナーの予防接種を受けましたが、人痘法からの変更については反対の声もありました。人間を動物の病気に感染させることへの心配があったためです。予防接種を受けた人の体が牛に成長する風刺漫画なども出回りました。また反対の理由には、予防接種への不満だけではなく、「変化への不安」もあったようです。新型コロナウイルスのワクチンについても同様ですが、新しいワクチンに対する不安は、どの時代も似ているのかもしれません(※8)。

ワクチンの並外れた価値は世界的に認められ、ジェンナーは数々の栄誉を受けました。しかし、賞賛と同時に、攻撃や嘲笑にもさらされたジェンナーは、次第に公の生活から退き、バークレーの田舎の診療に戻ったそうです。

リーデル博士は、「ジェンナーはワクチン接種を発見していないが、ワクチンの接種を科学として研究し、科学的地位を授けた最初の人」と称賛します。ちなみに「人痘法」は、「天然痘ウイルスの接種のみ」を指します。「ワクチン」という言葉は、ジェンナーの「牛痘法Vaccination」が開発されて使われるようになりました。のちに「細菌学の父」ルイ・パスツールがジェンナーを称え、感染症に対して免疫を人為的に誘導することを「ワクチンやワクチン接種」と指すように意味を広げました。

日本で、ジェンナーの牛痘法が成功したのは1849年。長崎出島でオットー・モーニッケ医師が牛痘苗の接種に成功して、日本全国に普及しました。1858年、江戸の蘭方医83名の出資で、神田お玉ヶ池に私設の種痘所が開設され、のちに東京大学医学部となりました(※9)。

米疾病予防管理センター(CDC)によると、1800年代のある時点で(正確な時期は不明のまま)、天然痘ワクチンの製造に使用されたウイルスが牛痘からワクシニアウイルスに変わりました(※10)。