日常でもビジネスでも何が起こるか分からない時代。こうした時代を乗り越える唯一の手段が「歴史」だ。時代も登場人物も違えば、まったく同じ歴史をたどることはない。しかし、似たことはこれまで何度も起こっているのである。それならば歴史に学ばない手はない。本稿では、とりわけ「法」の歴史について、武蔵野学院大学准教授の高田久美氏に解説していただいた。
「仇討ち・切捨御免」は公認だった?
5分で分かる日本の法の歴史
「社会あるところに法あり」ともいわれるように、社会が成り立つために不可欠な社会規範が「法」です。そのような法と人との関係を、歴史的な観点で考えてみる学問を「法制史」といいます。
世の中にはいろいろな法があります。ここでは、犯罪事実の有無を調べて有罪・無罪などを判断する「刑事裁判」に関する歴史をたどってみることにしましょう。
明治時代までに2度
外国の法律の影響を受けている
日本は明治時代までに2度、外国からの法典を継受したといわれています。
その最初が古代における「律令」の編さんです。「律」は刑罰を、「令」は国家行政などに関する中国の法を意味します。
まず、唐(中国)の律令を参考にして、701(大宝元)年に「大宝律令」を作ります。そして、藤原不比等らがこれに修正を加えた「養老律令」が757(天平宝字元)年に施行されました。
養老律令の裁判手続きは、「告言(こくげん)」によって開始されます。告言とは、処罰を求めて訴えを起こすことです。告言を行う人は、罪を犯したと考えられる者の名前と罪状を記した訴状を官庁へ提出します。
「訴状の内容にうそがあれば自身が処罰されるぞ」ということが伝えられ、「それでも訴える意思に変わりはないか」という確認が3回、繰り返されます。