傑物だが、どこにでもいるような普通のおじいちゃん的パーソナリティー

 こうした意見が出てきたのは森氏に対する批判が一巡したのに加え、終始一貫した森氏の姿勢が一役買ったのかもしれない、とも考えられる。たとえば世論を納得させることができなかった辞任会見については「要領を得ない」「話が無駄に長い」といった評があった。たしかにその通りで、何しろ話が途中唐突に飛んで「『老害』という言葉は好ましくない」という愚痴になったりするのである。

 およそ整然としていない会見であったが、会見全文を読んでみると森氏の人柄がよく伝わってくるのは確かであった。全文に接して筆者が真っ先に感じたのは「この人はその辺のおじいちゃんなのだ」だった。

 誤解なきよう言っておくが、仮にも一国の宰相を務めた人物であるから傑物には違いない。人たらしとして有名で、失言が多いが界隈にながく生き残るしぶとさは間違いなく政治家として突出した適性があったからである。

 しかしそんな傑物も、“政治家”の一皮をむいて見てみれば、旧態依然のジェンダーの価値観から脱却できず、話は長く言わなくていいことまで口走る悪癖があり、外野から「老害」と罵られていちいち腹を立てるような、どこにでもいるような普通のおじいちゃん的パーソナリティーがあった。

 女性蔑視発言とその後の一連の会見は確実に不適切であったが、“森喜朗らしさ”に着目して見返してみると、公私がごちゃ混ぜになったような森節はたしかにそこでも貫かれていた。“逆ギレ会見”として有名になった謝罪会見も、記者の戦闘的な姿勢に反応してキレたように見える部分もあり(それ以前に記者を憤慨させていたのがほかならぬ森氏の言動と態度だが)、実に一般のおじいちゃん的であった。良くいえば“裏表のない政治家”であり、悪くいえば“配慮と自省が著しく足りていないマイペース”な人物である。

 森氏の引き際はお世辞にも美しくなく、多くの国民の怒りを鎮静化させることもないまま、幕が引かれたが、実に「森喜朗ここにあり!」たる引き際であったことは間違いない。これを範とするか反面教師とするかは読者に委ねるとしたい。森氏の辞任は引き際の美学を学ぶ上で非常に示唆に富んだ教材となった。