そのインド人女性は、こんな質問を教授にぶつける。

「先生がご著書でも民主主義の浸透具合を測るときに用いているFreedom Houseのデータはどこまで信憑性があるとお考えですか? そこにも主催者の主観が入っていますよね? 利害が絡んでいるのではないですか?」

「先生はご自身も顧問を務めるUNDP(United Nations Development Program)が貧困国の社会成長を促し、民主化へ向かわせるのに大きな役割を果たしたと主張していますが、それは自己満足じゃないですか? 政策の一貫性やモニタリング、現地社会の自己再生能力の強化などを含め、国連が干渉していることによって、滞っている事態もあると私は思っています」

 私が28年間生きてきた中で、「空気読まない人ランキングNo.1」に位置するこの女性は、とにかく場を荒らし、かき乱す先天的センスを持っている。何か気になることがあればすぐに質問攻めにする。上記二つのコメントを見ても、学生たちの前で教授の面子を潰している。しかし、教授は苦笑いするだけだ。もちろん、怒ったりはしない。

 それは、議論だからだ。議論を進めるのに、教授も学生も、プライドもコンプレックスも、面子も地位も関係ない。それらは議論の場においてまったく力にはならない。自分がどれだけ理論武装をして、相手を説得させ、議論をリードしていけるかという、人間力と突破力だけが、場を支配するポテンシャルを持つのだ。

講義に名札が欠かせない理由

 空気を読まないのは、インド人女性だけではない。

 たとえば、ダイヤモンド・オンラインでも登場したことがあるジョセフ・ナイ教授(参考:日中国交正常化40周年「どう中国と付き合うか」第5回)が担当する「Leadership and 20th Century American Foreign Policy」の授業。リーダーシップ、倫理、対外政策という三者の関係性から、歴代のアメリカ大統領が対外政策を通じていかにリーダーシップを発揮してきたかを読み解いていく。

 言葉に一切の無駄がないクールなナイ教授が理路整然と持論を語ると、それを聴講している、熱く火照った猛者たちが挑戦していく。

「先生、あなたの見解は間違っている。これから、その理由を言わせてもらう」

 国防次官補を務めた経験があり、国際安全保障システムの変化に多大な影響力を持つ「世界のナイ」に対して、平気でこういう発言をする。それに対し、ナイ教授も真剣に身を乗り出し、「トーマス、君の見解を聞かせてもらう」と歩み寄る。

 ちなみに、学生たちは教室に学校が用意してくれた名札を持参し、席の前に立てる。教授は直接学生の名前を呼び、友好的な雰囲気の中で、議論は進んでいく。

 ケネディースクールの首脳陣の一人に名札の理由を聞いてみた。

「互いの名前も知らない状況で議論ができるか? お互いに名前を呼び合うことで、建設的な議論に必要な信頼関係が初めて醸成されるのだ」という回答が返ってきた。

 私は素晴らしいと思った。名前で勝負する。名前を覚えてもらうために、己を主張し、議論にコミットメントし続ける。地位や肩書きなどは二の次なのだ。というよりは、ギリシャからの学生の言葉を借りれば、「そんなものは邪魔なだけだ。捨ててしまえばいい」のだろう。