ドイツ人がつくった街の
紆余曲折の歴史

 カリーニングラードの歴史は13世紀半ばにはじまる。ドイツ騎士団が街を築き、「ケーニヒスベルク」と名づけた。その後、ハンザ同盟に所属する貿易都市として栄えたが、15世紀にはポーランドの支配下に置かれてしまう。しかし、18世紀に入るとこの地にプロイセン王国が建設され、ドイツの中心都市となった。

 そうした紆余曲折を経て、第二次世界大戦でソ連がドイツに勝利すると、ケーニヒスベルクはソ連の領土となり、カリーニングラードとして新たな一歩を踏み出したのである。なお、このときドイツ人はみなドイツ本国へ追放されている。

 そしてソ連崩壊後、飛び地となったことは前述したとおり。では21世紀以降、カリーニングラードはどうなったかというと、すっかり孤立した状態になっている。それはバルト三国やポーランドがEUやNATO(北大西洋条約機構)に加盟して、親欧米側へと近づいていったからである。

 ロシアはカリーニングラードを見捨てていない。むしろ重要な軍事拠点のひとつとみなし続けており、カリーニングラードの住民もロシアへの帰属意識が強い。それに対し、近隣のバルト三国やポーランドは政治的・経済的にどんどんロシアから遠ざかり、欧米へと近づいていった。結果、カリーニングラードは完全に「陸の孤島」と化してしまったのである。

 ただし、カリーニングラードも少しずつ発展している。ソ連崩壊直後は経済破綻で苦境に立たされたが、州都カリーニングラードは特別経済区に指定され、経済的に大きな成長を遂げた。

 周辺国との関係が微妙でも、ロシアとのつながりがある限り、大国の飛び地として存在感を高めることができるのだ。