ミシェル・テレスチェンコ著(吉田書店/2800円)
米同時多発テロ事件から17年が過ぎ、世界は大きく変わった。その一つは、違法だった「拷問」が当たり前になったことだ。米軍が、イラクのアルグレイブ刑務所やキューバのグアンタナモ基地で、テロリストと目された外国人戦闘員を拷問していた事実はよく知られている。
対テロ戦争が遂行される中で、「拷問された」という証言がなくならないのは、テロが必ずしも戦争法規の範疇に入らず、拷問を禁止する国際法に抵触しないためである。実際、米国は、非戦闘員に対する拷問を事実上法的に免責できるという法案をテロ後に可決している。
しかし著者は、拷問は法的な問題を抱えるばかりか、対テロ対策としても無効であるという。例えば、よく引き合いに出されるのは、仕掛けられた時限爆弾の在り処を拷問で聞き出すという想定だ(紹介されているように、これは海外ドラマ「24」の演出にも出てくる)。ただ論理的に考えれば、そうした想定は非現実的であり、拷問を正当化する方便としてしか機能しないとする。これまでそうした事例は皆無であるばかりか、拷問された者は真実を話すとも限らないからだ。爆弾が仕掛けられたという情報がある時点で、さらに拷問にかける意味はない。
また、拷問は「政治的に危険」な行為であるとの指摘は重い。国家が拷問を制度的に認めた場合、国民を保護するという自らの存在理由が崩され、拷問という無益な手段に頼ることで恐怖心を植え付ける結果しか招かないからだ。テロという卑劣な行為に対し、拷問という卑劣な行為で仕返しすることを意味するに過ぎない。
それでも拷問が許されるケースはあるはず、と読者は思うかもしれない。ならば、法的に妥当な拷問とは何であるか。拷問と強制尋問の境目はどこか。対象は、誰だったら許容されるのか。秘密裏に行われた方がいいのか、情報公開された方がいいのか──こうした難問に答えられるのでなければ、拷問は認められないと著者は訴える。そして答えられないからこそ、禁止されるべきなのだ、とも。
哲学者である著者による、古くはアリストテレス、現代ではウォルツァーといったさまざまな哲学者らとの対話、時にこうした先人たちを論破していく小気味よい文章は、難しい問いに対しても明晰な答えを導くことができるという良い手本にもなっている。
人間の存在を危機に晒す“野蛮”に対しては、それを告発し、人間を擁護する議論を用意しておくこと。これもまた、哲学的思考の面目躍如であるのだろう。
(選・評/北海道大学大学院法学研究科教授 吉田 徹)