凶弾に倒れた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の“最後のプレゼント”と称されたロッテデパートとロッテホテルの大成功で、韓国のロッテグループは製菓事業に加え、新たに流通事業と観光事業を同時に推進する「観光流通」を擁する先進企業グループへと姿を変える。その観光流通の集大成とも言うべき存在が「ロッテワールド」であり、ソウルオリンピック開催決定による開発ブームと、韓国の驚異的な経済成長とも相まって、ロッテグループは1980年代に韓国の財閥として確固たる地位を築いていくのだった。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)
ロッテに転がり込んできた“いわく付き”の商業用地
1981(昭和56)年9月30日、西ドイツのバーデン=バーデンで開かれた第84次国際オリンピック委員会総会で、88(昭和63)年のソウル五輪大会の開催が決定した。11月26日には、86(昭和61)年の第10回アジア競技大会の開催都市にも選定されている。
中進国から先進国への道を爆走していた韓国にとって、64(昭和39)年の東京五輪大会以降の日本の国際的な地位の向上が脳裏に浮かんだかもしれない。「88(パルパル)」と呼ばれたソウル五輪大会の開催に向けて、関連施設の開発に一気に火がつく。
後に「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる、韓国の驚異的な経済成長の象徴が江南(カンナム)エリアである。60年代まで人影もまばらなソウル市郊外の閑村に過ぎなかった江南は「大韓民国の心臓都市」と呼ばれるまでに姿を変える。オリンピック会場となる蚕室 (チャムシル)スタジアムなどのオリンピック関連施設を擁した蚕室エリアは、その代表と言える存在だ。
蚕室は、もともとは流域面積で韓国トップの河川である「漢江」に浮かぶ砂島であり、W字型に蛇行していた漢江の流れを真っすぐにするために治水(止水壁)工事が行われ、71(昭和46)年に地続きとなった土地である。当時の新聞は地元の様子をこう描いた。
「瞬間的に川が詰まって流れが中断され、この歴史的な光景を見守っていた数千人の島の人たちは歓声を上げ、昼夜を問わず作業をしてきた重装備運転手らはお互いに抱き合って涙を流すこともあった。(中略)この川の遮断でソウル市は80万坪余りの新しい土地を得て蚕室地区は160万坪に広がり、新しい市街地建設の基盤を固めたのだ」(*1)
当時の朴正熙大統領は、70(昭和45)年に資金不足や政情不安などからアジア大会開催を返上した雪辱を果たすべく、大規模な運動施設建設の検討を指示、76(昭和51)年に基本計画がまとまると、運動施設の建設が次々と進んでいった。
ソウル市は78(昭和53)年、蚕室地区の商業地域約15.5万平方メートルの売却に際して、「2つのデパート・ショッピングモール・ホテル・慰楽施設などを開発できる資本力を持ち、買収後ただちに開発計画書を提出すること」という入札条件を付けていた。
ロッテはこの頃、ロッテホテル(78年竣工)とロッテデパート(77<昭和52>年着工)のプロジェクトが佳境に入っており、とても応札を考えるような状況にはなかった。
この土地(入札対象は9.1万平方メートル)を最初に手に入れたのは、わずか3年前に設立されたばかりの貿易商社「栗山(ユルサン)実業」。73(昭和48)年のオイルショックでオイルマネーに沸く中東向け建築資材の輸出で急成長を遂げた新興財閥だった。しかし、急拡大がたたって、翌79(昭和54)年4月に巨額の不渡りを出して倒産してしまう。
この結果、土地は土木建築系財閥「漢陽(ハンヤン)」の手に渡る。82(昭和57)年には韓国観光公社と組んで周辺の土地も買い足し、約15万平方メートルを対象に、「総合観光流通団地」の建設に乗り出した。ところが、今度は中東に進出していた建設部門の不振で漢陽が経営危機に陥り、83(昭和58)年にはこの開発事業から撤退してしまう。
倒産と経営危機で2社が立て続けに放り出した、いわく付きの土地に触手を伸ばしたのが、重光武雄だった。79(昭和54)年3月にロッテホテルを全館開業、12月にはロッテデパートを開業して大成功を収めた重光にすれば、ソウルに巨大な商業開発地が手つかずのまま5年も眠っていたのだから、絶好の開発案件と映ったことだろう。韓国のロッテグループは84(昭和59)年8月には土地買収を完了し、約半年後の85(昭和60)年3月には財務省の事業承認を受けた。同年8月1日に黒川紀章の建築都市設計事務所に基本設計を依頼するところまで決まったが、同じ月の27日にはもう土地の掘削工事を始めていた。
*1 『京郷新聞』1971年4月16日付