大正デモクラシーは「日比谷焼打ち事件から」は誤り、なぜ軍国主義を招いたか「日比谷焼打ち事件」を機に大正デモクラシーが始まったという説は正しいのでしょうか(写真はイメージです) Photo:PIXTA

中学・高校の教科書に必ず掲載されている「日比谷焼打ち事件」。この事件を機に大正デモクラシーが始まったというのが、いわば常識になっている。しかし、実は「大正デモクラシー」という言葉は、戦後になって造られた歴史用語である。当時の人々が「大正デモクラシーを始めるんだ!」と意図して焼打ちをしたわけではないのだ。「日比谷焼打ち事件」は、日本が軍国主義に至る流れを語る上で、極めて大きなターニングポイントである。どういう意味を持っているのかを、歴史研究家・河合敦さんの新刊『教科書の常識がくつがえる! 最新の日本史』(青春出版社)から抜粋して紹介する。

国民が強いられた日露戦争への協力と生活苦

 日比谷焼打ち事件は、日露戦争の講和条件の不満に端を発した大暴動である。政府は大国ロシアを相手とする大戦に勝利するために、戦争勃発早々、国家財政強化のために大規模な増税をおこなった。

 戦争勃発2カ月後の明治37年(1904)4月には、第一次非常特別税を創設して地租を大幅に増やし、営業税や消費税を引き上げ、いくつもの新税を導入している。翌年1月にも非常特別税法を改正してさらなる増税をおこない、その総計は実に1億4000万円に達した。

 さらに政府は国内外からの公債で17億円にのぼる戦費を調達し、辛勝というかたちで一年7カ月にわたる戦いに決着をつけた。実際に要した費用は15億2000万円だったが、これは、日清戦争の7倍で国家予算の五年分にあたる額だった。