日本史の中でやはり人気が高い戦国時代。しかし、多くの人が学校で習ったであろう「応仁の乱で室町幕府が弱体化し戦国時代へ」は、正しくないことが分かっている。東国では応仁の乱の13年前、1454年に始まる「享徳の乱」から、全国的に戦国の世になったのは応仁の乱ではなく、「明応の政変(明応2年、1493年)」からだという説が研究者の間で有力になりつつある。いったいどういうことなのか?そこで今回は、歴史研究家・河合敦さんの新刊『教科書の常識がくつがえる!最新の日本史』(青春出版社)から、この「明応の政変」について詳しく解説する。
応仁の乱とは結局なんだったのか
「応仁の乱」は日本全土に戦国時代を到来させたという共通認識があったが、近年、研究者の間では、応仁の乱が終結してから16年後に起こった明応の政変こそが戦国時代の到来だとする考え方が強くなりつつある。
まずはこの政変と大いに関係のある応仁の乱について復習しておく。応仁の乱は、幕府の三管領(将軍の補佐役である管領を出す家柄)の一つ、畠山氏一族の戦争から始まった。応仁の乱が勃発する十数年前から、畠山氏は政長派と義就派に分かれて一族・家臣でもめていた。
幕府の実力者である守護大名の山名持豊が、畠山義就を支援し、将軍義政に働きかけて畠山政長の管領職を罷免させると、政長は屋敷を焼き払って上御霊神社に陣を敷き、管領の細川勝元に応援を求めた。しかし勝元はこれに応じず、結局、義就は政長軍に襲撃されて敗退した。この御霊合戦が応仁の乱の始まりである。